〜 Weekly Meditation〜


ウイークリー瞑想 「続ー神の臨在の習練」  2004年12月30日(木)


 神の臨在のための習練、プラクティスということで、「立ち止まり、退くこと」をブラザー・ローレンスが勧めていることを紹介いたしました。何人かの方から、その必要性を納得できますというレスポンスをいただきました。ブラザー・ローレンス自身が修道院の厨房での仕事をしながら神の臨在を身につけていったことなので、「習練」は忙しい日常生活にそのまま当てはまります。

 紹介した分だけ「立ち止まり、退くこと」の次の手だてが気になってきました。彼の文章は手引き書のように分かりやすく書かれているわけでありません。
多分彼が言っていることは、立ち止まり、退いて次にすべきことは、「神をほめたたえること」、すなわち、神を神と認めることのようです。

 このこともまた目新しいことではありません。特に年の終わりに当たって一年を振り返り、神のなしてくださったことを数えながら、その恵みを覚えて神をほめたたえることができます。勿論厳しい現実にも直面してきています。それでも神の守りと導きをゆっくりと思い起こす事ができます。さらに新しい恵みを期待できます。ある方は「新しい苦しみ」を期待できますという挨拶をくださいました。

 しかし、ブラザー・ローレンスは「神をほめたたえること」を、少し別な視点というか、もっと内面的な意味で捉えているようです。すなわち、神は確かに目に見えるかたちで恵みを施してくださるのですが、その恵みがあるので神をほめたたえるというのではないのです。そうではなく、外面的な感謝や困難があってもそれはそれとして置いておいて、


上沼昌雄記
ともかく神を神として認めていくことを言っているようです。外面的なことは忘れて、思いを神に向けていくことです。「立ち止まり、退くこと」はそのような感覚からも離れることを意味しています。

 恵みの感謝は私たちの内側で起こることです。しかしその感情をどんなに延長しても神には至りません。むしろ自分の世界に留まってしまいます。自分のことが中心になってしまいます。神は自分の思いの投影になってしまいます。それを断ち切るために立ち止まって、退いて神をただ神として認めていくのです。

ブラザー・ローレンスはそれをいつでもしていなさいとは言っていません。仕事をしているときでも、料理を作っているときでも、一日のうち何回か立ち止まって、退いてただ神をほめたたえることを勧めています。

 また奉仕をしているときでも、たとえ祈りをしているときでもそうすることを勧めています。確かに感謝の祈りも、困難の中での祈りも、よく考えてみると自分のためだけに祈っています。神が神であるゆえに神をほめたたえているわけでありません。自分のために神をほめたたえて、祈りを捧げています。ですから、自分のことはともかく置いて、感謝があっても、困難の中にあっても、神を認めるのです。神の臨在が心を支配することを待つのです。難しいことです。 厳しいことです。

 ブラザー・ローレンスはこの辺の際どいところを乗り越えてます。心の深いところで神をほめたたえています。外面的なことで動かされない魂の安らぎを身に受けています。神の臨在に溢れています。おそらく何度も自分に言い聞かせながら、毎日の仕事の中にあっても、歩いているいるときにも、祈りをしているときにも、立ち止まり、退いて、神をほめたたえることを身につけたのだと思います。