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■「クリスマス再考」 2003年12月20日(土)
=略=
ある方からの便りに、「さて、先週ニュースステーションにノーベル賞作家の大江健三郎が出席していて、59才で書くことを一時止めたというのです。そして、数年後にまた、書き始めたら自分が高められていたというような話しをしていました。」 =略=
次のような返事を差し上げました。「大江健三郎の『高められた』というのは、分かるような気がするのですが、むしろ『低くされた』というのが当てはまるのかも知れません。Centering Prayer というのがあるのですが、焦点が定まってきたと言えるようです。余分なものを切ることができるのかも知れません。」それに対して次のような質問をいただきました。「高められた、とうよりも、低くされたのでは、というご意見に深く考えさせられました。このクリスマスにイエス様のこととつながります。どうして、そのような洞察ができたのでしょうか。」
どのような洞察なのですかという問いをいただいたのですが、答えはこの先生の言われているクリスマスのイエス様につながっているのだと思わされました。
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)
三位一体の学びを初代教会にまで遡っていくと、当時の人がクリスマスを静かに、厳かに過ごしていたのが分かります。初代教会の人たちはキリストの受肉に救いをみていたからです。ニケア信条がそれを語っています。迫害や困難で低くされている人たちにとってはキリストの貧しさが救いでした。私たちにとっては、クリスマスはただキリストの誕生を祝うという面が強く、その分騒がしくなってしまいます。
初代教会の人たちのクリスマス理解は、困難のなかにあるときには慰めです。キリストと一緒に低くなれるのです。キリストと共に死にますといわなければ生きられないのです。さきの先生の質問に対して、自分なりに通された道を思い出しました。ただキリストの低さが見えてきたのかも知れません。見えてきたことでただふっとキリストと一緒に高くされたような経験なのかも知れません。余分なものが取り去られて、人も見えなくなって心がただ神に向いている状態です。Centering Prayerといわれているのは、そのように焦点がキリストに合っていく祈りなのです。
このクリスマスにも低くされます。自分ひとりですと惨めさがでてしまうのですが、キリストとともに低くされるのだと思うとじっと耐えることができそうです。「彼がまず地の低いところに下られた、いうことではなくてなんでしょう」(エペソ4:9)と、下られたイエスの御思いを、このクリスマスの時に少しでも自分の思いとできそうです。
また、キリストの謙卑といわれるピリピ2章6?11節で、パウロがみているキリストの低さも、パウロ自身の低くされた心を語っているように思えてきます。母マリアが自分の身に起こったことを「すべてを心に納めて、思いを巡らしていた」(ルカ2:19)のが、まさにCentering Prayerのように思えます。キリストの降誕には大切なものに焦点をあわせてくれる力があるようです。
上沼昌雄記
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