〜 Weekly Meditation〜


■「妻が宝!?」 2004年2月2日(月)

 先週のウイークリー瞑想「妻の話を聞く?」に対して、私より少し年輩の方からレスポンスをいただきました。2度ほど都内のセミナーでお会いした以外はメールのやり取りで交わりをいただいています。慎重な方ですが、前回のメールでいままで断片的であったことに「一つの流れを見る思いでした」と言ってくださいました。しかし「キリスト者にとっても一般的な流れではないような気がします。しかし、本来はこうなのかなと…」と付け加えてくれました。

 妻の話を聞くことも、キリストがそうされたようにという神の愛の実現ですが、夫さえも識別できない妻を愛し続けたマクルキン先生の神の愛の行為に、本来はこうあるべきかなと気づかれたのです。神のために献身したり奉仕したりすることが、妻を愛することと方向がずれてしまっている現実を思わされます。初めにその方向がずれてしまったために、距離がますます離れて来てしまいます。この方が「一般的な流れではないような気がします」という現実を自分のこととしても思い起こすことができます。

 このメールをいただいた先週末は、サンフランシスコの郊外の高台のお宅で静まりと瞑想のセミナーを持っていました。土曜日一日は気持ちよく晴れ上がってゴールデンゲイトも眼下に見下ろすことができました。日本から6ヶ月バークレーで研修されているご夫妻も参加してくれました。セミナーではしかし、夫婦のことより自分のなかでの神との関わりに重きを置いていました。

 午後の瞑想で「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」(マタイ13:44)という箇所を取り上げました。お昼のあとで気持ちがよくなって眠い時でしたが、このイエスの短いたとえを思い巡らし分かち合いました。宝は眼下に見えるゴールデンゲイトのようなものではなく、「畑に隠された宝」であることにどのような意味があるのだろうか、また、畑に隠されていて自分が見つけて、そのために持ち物を全部売り払ってその畑を買うという自分の行為が伴ってくるもので、自分だったらどうするのだろうと、皆さんが自由に意見を出してくださいました。

 最後の締めくくりとして「それでは、私にとって宝は何でしょうか」という問いを各自で思い巡らしました。分かち合っていくなかでひとりの兄弟が、照れながら、しかし嬉しそうに「それは妻でしょうか」と、隣に座っていた奥さまをちらっと見ながら言われました。一斉に喚起がわき起こりました。しかしその兄弟は「それしかないのでは」という顔をしていました。それで妻を宝と見るこのご夫妻に質問が集中してきました。「それでは喧嘩はしないのでね」というひとりの姉妹の問いに奥さまが「とんでもない」とこれも嬉しそうに答えていました。

 宝は天の御国のたとえとして言われているので、妻を宝と見るのは的はずれではと一瞬思ったのですが、しかし妻を宝としてみて、そのように扱っていくことはまさに天の御国に関わることだと納得しました。「人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」と言うことが当てはまるのです。兄弟に「奥さまは兄弟だけに宝ですよね」と言いましたら、「それではいけないのですか」と返事が返ってきました。私を入れてほかに3名男性がいたのですが、みな納得をしているような顔をしていました。神に心を向けていくことと、妻に心が向いていくことが深く関わっていることを、再度確認させらたことでした。


 上沼昌雄記