■「その召しにふさわしく」 2004年3月15日(月)
日本人留学生の伝道を主体とした働きであるJCFNの日米の合同主事会と理事会をサンフランシスコ郊外とサクラメントで持ちました。合同主事会の2回の朝にエペソ書4章1節から What is my calling? というテーマで10名ほどの主事・アソシエイトたちとともに思い巡らしました。
その箇所は次のように言っています。「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」
このテーマは坂野師のどこかの記事で、ハンス・ビュルキ師が牧師たちに、牧師とか宣教師に召されたという意味ではなくて、生涯にわたってどのように生きていくのかという意味での召しを尋ねて、牧師たちが静まりかえって考え出してしまったと書かれていました。それ以来、私のなかで問い続けています。主事会のディボーションでもすでに何度か取り上げてきました。2年前にこの問いに対する答えをパスされた主事のこともよく覚えています。
私のなかに What is my calling? に対して明確な答えがあるわけではなく、問い続けていくなかで少しずつ近づいている感じをもっています。また、私に答えがあって主事たちに教えていくものでもないのです。ひとりひとりに召されている召しがあるのです。主事や牧師を辞めても生涯にわたってどのように生きていくのかという、生き方としての召しともいえます。地上の生涯を終えた時に墓碑に刻まれてもよい召しなのだと思います。すなわち、あの人はこのように生きたと分かるものなのでしょう。
私のなかでひとつ気づかされていることは、召しにふさわしく歩むことで結局は自分自身が自分の人生に一番納得できることなのだろうということです。召されるというのは外から、すなわち神からきていることなのですが、その召しにふさわしく歩むことで、どんな犠牲がともなっても自分の人生に満足できることなのだろうと思わされています。すなわち、自分らしい歩みができるのでしょう。
本来の自分に立ち返ることができることなのでしょう。ですから喜びが心の底からわいてくるのでしょう。
この問いを問い続けているなかで、まさにパウロにとっての召しは何であったんだろうと思わされました。What is my calling? をパウロに当てはめたらば、「主の囚人」と言っていることがパウロの答えなのだろうと思わされました。獄中に捕らえられている自分の姿をキリストの十字架の道とひとつに見ることで、自分の召されている召しを確認したのだと思います。その召しにふさわしく、まさしくキリストのように歩んでいるという確信を持っていたのだと思います。ですから、犠牲をともなっていましたが喜びがそれよりも勝っていたのです。初代教会の人たちは、このパウロの召しを納得して、そして現実にその生き方を見て、同じように迫害に耐えていったのだろうと想像できます。
「主の囚人」というのは獄中にあるパウロにとって、キリストの弟子というより自分にぴったりとした表現だったのだと思います。パウロだけの召しです。What is my calling? に対する私の答えも自分だけの、自分にぴったりする表現で与えられるのでしょう。そしてそれは、キリストの歩みと深く結びついているものなのでしょう。キリストとひとつだと納得できるものなのでしょう。
上沼昌雄記