〜 Weekly Meditation〜


■「主の麗しさ」 2004年2月16日(月)

  前回のウイークリー瞑想で、「妻が宝!?」というのが出てきた一日セミナーのことを記しました。そのセミナーのはじめに、さらにその前のウイークリー瞑想「幕屋のひそかの所」で紹介した詩篇27編の4節を共に思い巡らしました。「主の麗しさ」を「幕屋のひそかな所」で慕い求めている自分自身は、弱さと絶望感を身に感じながら「主の麗しさ」を恋いこがれているのです。「主の麗しさ」と「幕屋のひそかな所」に隠れている自分自身を対比しながら思い描く作業でした。

  「主の麗しさ」でどのようなイメージを思い描くのであろうか。それが今の自分とどのように関わっているのであろうか。それを慕い求めて「幕屋のひそかな所」に隠れている自分はどのような姿なのであろうか。自分自身が自分をどのようにみているのであろうか。詩篇の作者自身は「主の麗しさ」ということで何を思い描いていたのであろうか。自分自身をどのようにみていたのであろうか。どのようなことが出てくるのかは予想がつきません。自分自身でも、思い描いている「主の麗しさ」がどのような意味があるのか、分かりきれない所があります。出してくださった方々のイメージを聞きながら、大きな意味があるのだろうと思わされました。ひとりの兄弟が出してくださったことを、それ以来思い巡らしています。亡くされた子どもさんがイエスと共に遊んでいる情景でした。

  このご夫妻は20年以上前にひとりの息子さんを事故で亡くさました。その痛みと苦しみは想像できないことです。当事者でないと分からないことですとはっきりと言われます。奥さまはいろいろな機会に亡くされた息子さんのことを話してくださいます。ご主人の口からは普段はまったく出てきません。信じられない冗談が出てきます。英語と日本語を掛け合わせた冗談も出てきます。しかし心の深いことを語る機会には、しんみりと息子さんのことが出てきます。救いの証を伺った時に、キリストの復活によって信仰に導かれたことを語ってくれたました。

 この背景のことは分かっていたのですが、「主の麗しさ」の情景としてイエスと遊んでいる息子さんの姿を語ってくださったことで、言葉で表現できない大変重いものを感じました。いまでも残っています。
どんなに聖書を学んでも神学のことを知ったとしても獲得できない重みです。地上のことでは計ることのできない重みです。栄光の重みといえそうです。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、計り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(2コリント4:17)


 日本でいつもお世話になっている方が昨年お嬢さんを亡くされました。慰めることのできない悲しみを通されました。1年経ちましたので先日電話をいたしました。お父さんがこのイースターに洗礼を受ける準備をされているということでした。お嬢さんが導いていることが分かります。お母さんは、お嬢さんがキリストの花嫁としてキリストとの婚礼の場にいる情景を明確に持たれています。不思議な導きでイースターの洗礼式に列席できそうです。重い導きを感じています。信じているがゆえに感じ取れる重みのように思います。苦しみは想像できないのですが、それをも乗り越えることのできる重みなのだろうと思わされています。「重い永遠の栄光」なのでしょう。

 上沼昌雄記