〜 Weekly Meditation〜


神学モノローグ
「霊的気づき」 2004年5月7日(金)

 霊性は気づきであると言われている。突然神の臨在を気づかされたり、導きに気づかされたりする。予測できない。あることに突然気づかされる。驚きであり、新鮮である。突然であってもしかし、気づきが静かに向こうから届いてくることが分かる。同時に気づきなので、自分の心の深いところで納得できる。突然であるが、以前から、場合によっては永遠から定まっていたような感じを受ける。

 霊性が気づきであると言うとき、神の霊によって気づかされるという前提がある。しかしこの気づきを人間の機能の面からみたら、直感が一番近いように思う。聖霊によって気づかされて、自分で気づいたと思えることである。理性的な判断でもなく、感情的な判断でもない。自分のうち深く潜んでいる直感である。論理的な筋道も、感覚的な確かさもなく、前後の脈絡もなくいきなり自分のなかだけで納得できる判断である。

 みことばを思い巡らしているときに、あることに気づかされる。それが聖書のなかにあることなのか、自分勝手に気づいたことなのか、分からない。みことばを離れても、今まで見過ごしていた花の美しさに目が留まり、神の臨在を気づかされる。人との会話や交わりの中で自分のことに気づかされる。身近なところで気づかされる。信仰生活の長さでも、聖書知識の多さでもない。神との関わりの中での神秘的な部分である。

 この気づきが聖霊によるのか、単なる自分の直感なのかは区別ができない。ただ違いは時間をおくことによって見えてくる。単なる直感によることであれば、いずれ消えてしまう。聖霊によることであれば、それは確実に意味を持ってくる。気づいたことの意味をすぐに確認できなくても、時間の中でひとつの気づきが別の気づきに結びついて意味を持ってくることが分かる。

 ニコデモが夜イエスを尋ねてきた。彼のうちに何か気づかされたことがあったのだろう。それが彼を動かしたからだ。イエスとの会話は全くと言っていいほどかみ合っていない。それでもイエスの話すことに付いていっている。ニコデモが納得したのか、信仰を持ったのかどこにも書いていない。そのまま彼は消えてしまう。しかしご存じのように、イエスのからだが十字架から引き下ろされるときに登場してくる。映画『パッション』のこの場面でも彼がいた。ニコデモの中の霊的な気づきが彼をそうさせたのであろう。それでも信じたとは記されていない。ただ彼のなかに霊的に深くうなずくことがあったのだろう。

 霊的な気づきには、心の深さと広さが求められる。自分のうちに深く潜んでいる直感が神の霊に反応するためである。その深いところに神の光が当てられることで、心の深い底に溜まっている今までの人生のすべてが神の霊に反応する。それで気づきがわいてくる。知的な作業や、感情的な反応ではない。自分の心の動きを見つめ、心の声を聞き分けているときに気づきが起こる。気づきは自分の心への声でもある。納得して自分の存在の指針を与えてくれる。気づいたことで次の手だてが見えてくる。

 霊的な気づきは思いがけない機会に起こる。理論的な道筋で起こることでない。そのために心を広く開けておく必要がある。自分の心に聞くことと同時に、人の心に聞き、自然の音にも耳を澄ませていく。

 みことばを思い巡らしながら、どこに自分の心が対応するのかを待つ。心をし向けることではない。心がみことばに導かれるのを待つ。心を開くことによって霊の風通しがよくなる。風が思いのままに吹くに任せる。吹く風の中で佇んでいるとその声が聞こえてくる。ニコデモにイエスが言われた。風はその思いのままに吹くと。

 東北にいる友の言葉が誘いになって、風に吹かれるままの山桜に目が留まった。花見は終わってしまっていて、誰から観られるわけでなく、忘れられたように山桜はただじっと佇んでいる。行く先々で桜は散ってしまっていた。しかし東北の山並みに目を向けたときに、静かに風に吹かれて山桜が私を迎えてくれた。花見の後、そして新緑の前に山並みにひっそりと咲いている。何か不思議に納得させられるものがある。何かを語りかけてくれている。

 まもなく日本での奉仕が終わる。最後に伺った札幌で満開のさくらに間に合った。各地で心の交流をいただいた。思わぬ展開もいただいた。多くの方の愛の交わりをいただいた。美しい日本も観ることができた。今振り返りながら佇んでいると、神の声が届いてくるような気がする。振り向いたら新しい恵みが待っているようである。

上沼昌雄記