「信仰と哲学」 2004年4月19日(月)
まもなく94歳になられる大村晴雄先生を先週お訪ねした。先生は近世哲学が専門でヘーゲル、ヤコブ・ベーメなどについての著書が多数ある。近世哲学はプロテスタントの精神によって興ったと観ている。中世の終わりのドン・スコットスの中にその萌芽があるという。そのプロテスタントの精神とは何であるのか、大村先生を観ていると答えがでてくる。神の前に毅然と立つ精神である。奥さまを亡くされてお一人で生活をされているが、最後まで使命を全うしようとしている姿である。
この神の前に自分の存在を主張し、同時にその責任をとっていく姿勢は、ルターが「我ここに立つ。」といった姿勢である。ただキリストの信仰のゆえに義とされているので、神の前にでていくことができる信仰である。それゆえに「キリスト以外は知るまい。」と言っているパウロの姿勢でもある。それで、それがプロテスタントの精神だとして、誰が一番プロテスタント的な哲学者なのでしょうかと先生に質問した。しばらく考えられてから、ただ、それは大変いい質問だとね言われた。
カトリックでは哲学は神学のための予備学問である。神学の下にすべてを統合することを目指している。その意味では哲学と神学は矛盾するものでない。信仰によってのみ、聖書のみをとっているプロテスタントでは、人間の学問としての哲学とは距離を置いている。ただ信仰によって開かれた目と外の世界、すなわち主体と客体の関わりを大切にした。この主体の目が認識論として近世哲学で展開されてきた。自然科学はこの認識論の上にでてきた。
このような近世哲学を支えるものとしてプロテスタントの精神が各所に伺えるという。カントがドイツ語でich denke(私は考える)と記しているときにその ich をあえて大文字で Ich としているときの I がプロテスタントの精神であるとも言われる。
ヘーゲルの「論理学」の Logik(Logic) はロゴスなので、ロゴスとしてのキリストの学でるとも言われる。ヘーゲルの弁証法である正―反―合は、三位一体論の方法論化でもある。
このようなことはキリスト教を知っていれば当然のことであるが、大村先生は日本の哲学会で思いがけない非難を受けてこられたという。その実例をいくつか話してくれた。それでもひるむことなく神の前に毅然と立ってこられた。そのような反応は哲学者のキリスト教に対してのコンプレックスですねと私が言ったら、その通りといわれた。逆にクリスチャンも哲学にコンプレックスをもっていますねと言ったら、そうだねと言われた。
アウグスティヌスの『三位一体論』の新しい訳がでた。先生はこの『三位一体論』の全部をご自分の教会で講義されたという。前半は聖書から説き明かしていて問題はないが、後半は根本的な問題があるねと言われた。それはアナロギア(類比)ですかといったら、その通りと言われた。聖書から説いていながら後半では類比で三位一体を論証しようとする姿勢である。最後まで聖書で勝負をしないで、類比という別の論理をもってきている。キリストのみ、聖書のみの精神でないという。いま「三位一体の神との祈り」というテーマを聖書から考えている。別な論理をもってこないで、聖書だけで三位一体の神との関わりを考えていくための大きなヒントをいただいた。
プロテスタントの精神は神の前に毅然と立つ自己の認識の批判でもある。神の光によって照らされる自己である。しかし、啓蒙思想を経験しているプロテスタントの精神は批判を忘れてしまっている。
そのために理性による論理的な整合性で聖書を解釈している。聖書がそこまでは語っていないと思われることを論理的に結論を出してしまう。それに合わないものを排除する。判断停止や判断保留の余地がない。聖書を判断する理性が神に代わってしまう。
理性批判は神がそこまで語っていないことはそのままにして静かに待つことです。また語っていることでも別の理解があることを謙虚に認めることである。2千年の歴史を持つキリスト教は、根本的なことでは告白を共にしていながら、多様な理解を示してきたことを知ることである。プロテスタントの精神は、神の前に毅然と立ちつつ、自己の認識を神の光によって照らされることをよしとすることである。限界を知ることである。待つことである。
大村先生が決して独断的にならないで、私の意見をも聞いてくださること、また自分の使命が終わっていないといわれること、94歳近くなっても信じられないほどの知的な柔らかさをもっていること、いまだに日本人の中にあるどろどろしたものを探し求めていること、お一人で生活していながら決して寂しいとか辛いとか言われれないこと、会話の最後はいつも私に祈りを求めそれに力強く「アーメン」と言われること、ただプロテスタントの精神を観る思いである。
上沼昌雄