〜 Weekly Meditation〜


■神学モノローグ「新しい福音主義」 2003年12月8日(月)

 先週届いたニュース誌 US News & World Report の表紙のタイトルが「新しい福音主義 The New Evangelicals」となっていた。しばらく前からアメリカでは福音的な教会がすでに主流になっていると思っていた。1976年にカーター大統領が登場したときに雑誌『タイム』が「福音主義者の年」と言っていたのを思い出した。

 
ウォーターゲート事件に関わったチャック・コールソン氏の「ボーン・アゲン」というのが福音主義信仰を表す言葉になった。実際に70年代から福音主義の教会がアメリカの社会の前面に出るようになった。私の知る限りでは80年代に「聖書の無誤性」で福音主義の信仰の基盤を明確にし、90年代にはプロミス・キーパーズとして社会現象にまでなった。いまでは大統領から、下院議長、下院院内総務、司法長官まで福音的な信仰を表明している。

 
それで、なぜあえて「新しい福音主義」というタイトルを付けているのか大変興味があった。記事を読んで意味がすぐに分かった。今年がアメリカの代表的な神学者であるジョナサン・エドワードの生誕300年に当たっているからであった。そのために記事は、ジョナサン・エドワードのことを紹介しながら、彼の視点から観たらいまの福音主義の動きはどのように映るのかというようなかたちで書かれていた。

 
記事を読みながら、いまの福音主義の動きに関してはそれなりに分かるのであるが、ジョナサン・エドワードとの比較になると、彼をどのように捉えたらよいのかが自分のなかで明確でないので戸惑いを感じた。ブルトマンやバルトのようなヨーロッパの神学者の神学はそれなりに学んできたのであるが、ジョナサン・エドワードの神学にはほとんど関わってこなかったからである。

 
ひとつ分かることは、ジョナサン・エドワードはアメリカの18世紀の霊的覚醒を導いた人で、そのときに福音主義の信仰が中心であったが、その後自由主義やフンダメンタリズムの両極に動いていたのであるが、前世紀の終わりから再度福音主義が台頭してきたので「新しい福音主義」ということである。すなわち、いまの福音主義の再興の萌芽はすでに300年前にあったというのである。

 
この比較をしながら論じられているので、この種の記事としては大変内容のあるもので、特にいまの福音主義の利点も弱点も的確に指摘しているように思う。

 
ジョナサン・エドワードはピューリタンのカルヴァン主義の家庭で育っているが、宗教感情を抜きにした聖書理解の限界を牧会を通して知り『宗教感情に関する論考』(1746)という本を出している。すなわち、ジョナサン・エドワードによる聖書信仰の大切さとそれがもたらす宗教感情の共存が、いまの大きな福音主義の流れをもたらしたいうのである。聖書の福音を、音楽やメディアを通して、またビリー・サンディーやビリー・グラハムなどの大衆伝道者によって多くの人に届けようとしてきた努力が、新しい福音主義をもたらしたというのである。

 
雑誌の性格として政治のことに触れているが、福音主義者は歴史的には自由を大切にする民主党寄りであったが、最高裁による中絶容認や公立校での祈りの禁止が出てから保守的な共和党寄りになったと指摘している。しかしいまの福音主義者は必ずしも共和党だけでないともいう。それは福音主義が政治に埋没していないで、信仰の大切さを真剣に捉えている意味だという。しかし同時多発テロのような出来事が、アメリカが選ばれた民のような意識をもたらしてしまうといも指摘している。

 
19世紀から20世紀にかけて啓蒙主義の影響で出てきた自由主義神学と、それに反発するようなかたちで出てきたファンダメンタリズムにも触れている。福音主義はファンダメンタリズムの行き過ぎを修正するようなかたちで20世紀の半ばから再興してきた。カール・ヘンリーによる雑誌Christianity Todayがそのさきがけになったことをあげて、読者にファンダメンタリズムと福音主義の違いを喚起している。

 
ファンダメンタリズムはなくなったわけではない。現実にそのような理解を持った牧師との闘いも個人的に経験させられている。しかし、ギャラップの調査の結果を紹介しているが、10人のうち4人は自分は福音主義、ボーン・アゲンだという。当たっているかどうかは分からないのであるが、ただ実際にアメリカにいて感じるのは、クリスチャンだと言われる人がほとんど自分の信仰を福音主義ととっていることは分かる。この記事でも南部バプテストからペンテコステ派までも含めて「新しい福音主義」と呼んでいる。

 
その人たちもそうだと理解している。ピューリタン信仰を持って宗教感情を大切にしたジョナサン・エドワードによって、ペンテコステ派まで取り入れる大きな枠がすでにできていて、その流れのなかでいまの福音主義がでてきたのである。実際に先週末に、ポートランドに南部バプテスト教会に属している日本人教会があるが、そこで始まった聖書学校で「神論」を教える機会があって、霊に燃えて主に仕えようとしている神学生と教会をみることが許された。

 
一般紙の記事ではあったが、単に福音主義を社会現象として捉えているのではなくて、ジョナサン・エドワードから引いてきて説明してくれていたので大変刺激的であった。同時のこのような流れを持ったアメリカの教会の宣教師によって戦後起こされた日本の福音主義も影響を受けているのだろうと思わされた。自由主義神学に対峙するための理性偏重と、ファンダメンタリズムの影響による排他主義が日本の福音主義のメンタリティーになっているのであろうか。

 
そのために感情面を大切にするペンテコステ派を排除してしまうようなかたちになっているのであろうか。私のなかでの福音主義を再考する手がかりになりそうである。同時にアメリカの福音主義がこれからどのように歩んでいくのか、政治のことまで含めて観ていくひとつの視点をいただいたように思う。

 幸いにジョナサン・エドワードの『宗教感情に関する論考』は、ジェームズ・フーストン氏の編集によるものをフーストン氏からいただいているので、読み始めることにした。


 上沼昌雄記