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■ 「幕屋のひそかな所」 2004年1月5日(月)
聖書は神のことばなのですが、神のことを全面的には理解できない人間に向けて語られているので、聖書に展開されているドラマは神との親しい交わりを慕い求めている祈りの書とも読むことができます。 詩篇27編4節はその心を端的に語っているようです。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求 めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」
主を慕い求める心の真摯さに打たれます。主の家で主の麗しさを仰ぎ見ている自分の姿を想像 していることが分かります。この世の煩わしさもなく、人との面倒ないざこざもなく、肉体の痛みもなく、静 かにじっと主とともにいることを恋いこがれている心が伝わってきます。同時にそのことは願いであって、 現実にはまだ主の家に住むことができないでいる自分の姿を静かに見つめていることも分かります。神 の家に入りたい、しかしまだ入れないで、どこに自分がいるのかと振り向いて、戸惑いとも納得 ともいえる顔で佇んでいる姿が浮かんできます。
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私 をあげてくださるからだ。」(5節)私にはまだ悩みがあって主の家にはいることはできない。ただ主が私 を隠れ家に隠していてくださっているということに納得しているようです。私のいまいる場所は隠れ家 であり、幕屋のひそかな所ですと気づいたことで安心しているようです。
そんな詩篇の作者の心に惹かれます。神の家に入ることができないで、この地上で佇んでいる 自分自身に納得できるのです。肉を持つものとしては悩みがなくならないことが分かります。肉を 持ったままでは神の家に入ることもできないことも納得できます。ただ幕屋のひそかな所が私にも用意 されているのです。そこで神が私をかくまっていてくださるのです。
幕屋のひそかな所とはどこなのだろう。勿論詩的な表現なのである特定な場所を意味 していないことは分かります。同時に詩的な表現なので何をイメージとして持っていたのかと思 わされます。幕屋のなかで、しかし聖所でも至聖所でもないところで、ひそかな所とイメージできる場所 はどこなのだろうと勝手に思い描いています。ともかく幕屋の内側で外から隠れている安全な場所 なのだろうと思わされます。聖所にも至聖所にも入っているわけではないのですが、その近 くでかくまわれているのです。
主の家に住むことを願う思いもあります。しかしいまは幕屋のひそかな所にかくまわれていること、またそこでじっとしていたいと願う心が強くあります。現実にはそのようにいままでかくまわれてきたのです。悩みの日にも恥を見ることがないように主が私をかくまってくださいました。そのかくまってくださった場所を見つけたような気がしています。
上沼昌雄記
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