〜 Weekly Meditation〜


ウイークリー瞑想 「教会とは」 2004年6月7日(月)

 4月初めのイースターから5月半ばまでの日本での奉仕、続いて次女の卒業式でワシントン郊外での交わり、ポートランドの日本人教会の聖書塾での講義と続いた。その中で不思議に教会のあり方について考えされてきた。背後に家族で集っている山のなかの教会で役員として奉仕させていただいている経験もある。つまり信徒の立場で教会をみることが許されている。また現実に奉仕を通していろいろな教会をみる機会が与えられている。

 教会について考えると、いつもパウロがエペソ書の1章の最後で言っていることを思い出す。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23節)三位一体の神への賛歌で始まるこの手紙は霊的な格調をともなっている。教会は「天にあるすべての霊的祝福」(3節)にあずかる場として、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」と結んでいる。獄中にあるパウロにとって教会の交わりは満ち満ちた栄光と祝福を味わうところであった。

 アメリカと日本での限られた交わりの中でパウロのこのことばを彷彿させられる教会に出会うことがある。教会の中にすべてのものを包摂しうるような豊かさが宿っている。その交わりの真ん中に導かれる。教会の規模とか、教派でもない。また交わりの回数でもない。その教会が完全であるというわけでもない。問題がないと言うのでもない。ただその交わりにはいると人間的な限界がなくて、天に対して窓が大きく開かれていて、恵みが尽きることなく届いてくる可能性を感じる。

 教会としてのプログラムや体制が整っていても何か限界を感じさせられるときがある。また教会の立場や教えにおいて聖書その通りと思わされるのであるが、恵みがそれ以上に広がっていないように感じる。

 「いっさいのもの」ではなくて人間的な理解や筋道が優先させられていて、霊的な豊かさを欠いてしまっている。アメリカの教会に長く関わるようになって、教理的な正しさとは裏腹に霊的な乏しさを教会で感じることがある。そのような理解を持った宣教師に教えられた日本の教会が同じことを繰り返しているように思える。

 霊的な豊かさの可能性のある教会の牧師との会話で気づかされたことは、教会の組織とかプログラムの話はほとんどないことである。むしろ牧師自身の霊的な闘いを分かち合ってくれる。聞きながら牧師自身が霊的な満たしを拙に求めていて、神に対して全面的に開かれていることが分かる。自分の欠けに充分に気づいている。その向こうに満ち満ちた神の栄光をみている。多分この辺の霊的な響きが教会に伝わっているのであろう。

 聖書的な教えの正しさが前面に出て、霊的な響きを欠いている教会がある。牧師は聖書から説き明かしているので自分の教えが最も正しいと思ってしまう。そして自分は教える人、教会員は教わる人という関係で教会ができてしまっている。場合によってはその方が落ち着く信徒もいる。牧師もそれで使命を果たしているように思う。何か枠がしっかりできてしまって、新鮮な風が入ってこない。霊的に澱んでしまう。

 私のミニストリーを援助してくれている地元の長老派の教会は3千人以上の大きな教会であるが、いつも家庭的な温かさを感じさせられる。海外宣教部も大きな働きである。以前そのディレクターをしていた女性が元々はカリスマ系の教会に属していたが雇われてきたと言ってくれた。私のミニストリーもよく理解してくれて受け止めてくれた。この女性のために海外宣教が活性化し、教会が祝福された。それでいて長老派のアイデンティテーをしっかり保っている。「いっさいのもの」を取り入れる豊かさを感じる。

 アメリカでいわゆる祝された教会に何度か伺ったことがある。日本でも紹介されているサドルバック教会の礼拝にも出たことがある。すでにとてつもなく大きな教会になっているが、限界を感じさせない。溢れる豊かさがある。霊的に内から湧いてくるものがある。信徒は確実に感じ取っている。プログラムではない。プログラムをまねしても決してうまくいかない。牧師の霊的な闘いと響きが教会を生かしている。日本でも同じことを感じる。限界を感じさせない。枠がない。風通しがよい。

 5月半ばに日本から戻ってから次女のジョージタウン大学の卒業式で首都ワシントンに行って来た。ワシントンの郊外で泊めていただいたお宅の御主人がいま教会のExecutive Pastorをしていて、大変興味深い会話をした。この方たちとは9年前に長男の海軍兵学校の入学の時にお世話になって、それ以来に親しい交わりをいただいている。この御主人は元々はゼネラル・エレクトリックのある部門のトップの仕事をした人であるが、いまは教会の中で起こることを全部を取り仕切る仕事をしている。4年前は150名ほどであったが、いまは500名になっているという。主任牧師が教会内の組織、機構、ビジョンを担当する役割として彼にお願いして、最初はボランティアでいまはフルタイムで働いている。そのために主任牧師がみことばと祈りに専念できる。

 アメリカでいわゆる祝されている大きな教会にはみな彼のような立場の人が教会の中のことをいっさい取り仕切っている。そのためのカンファレンスも開かれている。牧師が本来の意味でみことばと祈りに専念するためである。機構的に100名を超えたらばユースパスターや音楽主事を置くよりも、このような立場の人を置く方が必要であるという。そしてこのような人はステパノのように、結局は霊的な責任を負うことになる。日本でも100名を超える教会が起こされてきている。私か関わっているJCFNも同じような
課題を抱えている。

 ワシントンの郊外に滞在している折りに、東久留米の教会を起こされたブレアー先生ご夫妻をフィラデルフィアに尋ねることができた。この1月にご夫妻が大きな交通事故に巻き込まれた。奥さまもようやく退院してきたところであった。先生が私のミニストリーと日本の教会のことを聞いてくださった。結局日本の教会、アメリカの教会で感じている以上のことをお話しした。そして教会が生きているかどうかは霊的な自由だと思いますと私なりの結論を申し上げた。全く同感だという顔をされた。

 その通りである。宣教師として英語を中心に牧会をしながら、生きた教会を立てあげられた。3年間協力牧師として奉仕をさせていただいて感じてきたことはこの霊的自由であった。文化の違いとか言葉の違いではなくて、霊的な自由があって、恵みの限界を感じさせなかった。このことを日本の教会でもっと話してくださいと言われた。責任を感じている。

 そしてポートランドの日本人教会の聖書塾での講義に伺った。教会の取られている強調点は明らかに異なっていながら、私の立場での教えが必要と言うことで教師陣に加えてくださった。異なった立場を十分吸収しながら教会が成長している。外から見ていると見事と言いたくなる。私も思い存分に語ることができた。まさに聖霊の自由である。

 パウロがエペソの教会に「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と言っている意味合いをすべて推し量ることはできない。ただエペソの教会との交わりでパウロ自身が計り知れない励ましを得ていたと思われる。教会が完全でなくても、祝福に満ちた神との関わりが開かれているときには、交わりを通していっさいを包摂する豊かさの中に導かれる。そんな教会があちこちで起こされてきている。


 上沼昌雄記