「苦難と認識」(神学モノローグ) 2004年4月12日(月)
札幌の友人の牧師が「認識の方法としての『苦難』」という小論文をしばらく前に下さった。20年以上前に書かれたものだという。細かくは覚えていないが、人間は苦しみを通して今まで見えていなかった真実を知るというのである。知的な認識では知識や論理性のある人の方が優れたことになり、いわゆる真理を知ることになるが、真実に到達しているわけでないという。苦悩は知識だけでは捉えなれない世界を見抜くことになるという趣旨であった。興味深く思った。
今回グット・フライディーに日本に到着したのは、イースターにひとりの方の洗礼式に列席するためであった。この方はお嬢さんを昨年亡くされた。お嬢さんの自分への遺言は教会に行くことであると悟られた。そして今回の受洗となった。ご家族の苦しみと悲しみの歩みを見てきた。悲しみがなくなったわけでないが、この方の人生に対する視点が変わってきた。人生経験を積まれている方であるが、お嬢さんの生き方と死を通して真実を見ることになった。
子どもさんを亡くされた苦しみは当事者にしか分からない。その苦しみを経験されることで、当事者でしか見えない世界を観ることになる。友人の小論文の趣旨に納得させられた。日本に来る前にアメリカで話題になったThe Passion of the Christを観た。日本でも「パッション」という題でまもなく封切られると聞いている。キリストの受難がまさに人生の一大事なのだ。
なぜ苦しみが、新しい世界を開くのか。新しい認識をもたらすのか。人を真実に近づけるのか。C.S.ルイスは、苦難はそれによって人が神に近づくか、離れてしまうかの分岐点であると言っている。苦しみは人生を引き裂く。人を奈落の底に落とす。崖っぷちに追いやる。絶望的な孤独にする。闇の世界に入れる。叫びをもたらす。自省をもたらす。苦しみは思いがけないことである。計算外のことである。
既成概念をうち砕く。心に穴を開ける。自己防衛をなくす。ギブアップをさせる。
苦難はともかく人をずたずたにする。それでも倒されない。余分なものを取り除く。それだけ無くてならないものに気づく。人を無にし、裸にする。そして人を謙虚にする。人を生かす真実に敏感になる。そして人の言葉の真実に気づく。人の痛みを受け止める。それだけ人との連帯感を感じる。受難(Passion)が同情(Compassion)をもたらす。
苦しみで心の窓が開けられると神が働きやすくなる。神はそのときを待っておられる。
にもかかわらず、私たちは長い苦しみを通される。それでも、それで終わるわけでないと気づく。そして視点が変わってくる。新しい世界が外にあることに気づく。自分で獲得した世界ではない。苦しみで気づかされた世界である。無の世界である。苦しみで精錬された純粋な世界である。ただ神を待ち望むだけの世界である。
苦しみは個人的な体験である。それでいて普遍的な体験でもある。絶望的な孤独の共有である。
キリストの受難は私たちのうちにある絶望的な孤独を呼び起こす。打ちひしがれた自分の姿である。傷を負っている姿である。ののしられあざけられている姿である。さげすまれている姿である。キリストの苦しみとの共有である。沈黙で通じ合える世界である。
苦しみは私たちを裸にする。そして、神との親密感が生まれてくる。苦しみは私たちを謙虚にする。そして、自分の外の世界に敏感になる。
苦しみは私たちを純粋にする。そして、真実と呼ばれることに耳を傾ける。
苦しみは私たちを新しくする。そして、神の関わることに注意を払う。
苦しみは私たちを霊的にする。そして、霊的な世界が真実な世界であることに気づく。
ヘブル書の不思議なことばを思う。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(2:10)万物の存在のために苦難は必須条件であるという。真実を知るための必須条件である。
友人の小論文「認識の方法としての『苦難』」を思い起こしながら、受難週とイースターを過ごした。
上沼昌雄記