〜 Weekly Meditation〜


ウイークリー瞑想 「気になること」 2004年9月6日(月)

 クリスチャニティー・ツディーの最新号でフリップ・ヤンシィーが「神を忘れてしまう」という記事を書いている。クリスチャンはまじめで一生懸命仕事をするので、少しずつ富を蓄えていくが、それが力、社会的、国家的には権力になり、そして頽廃していくサイクルを繰り返していると言う。修道院も同じことを繰り返し、リバイバルも同じ傾向を持っていて、いまのアメリカの教会もその方向に向かっていると言う。
富、力、頽廃は人間社会のサイクルのようである。イエスがルカ福音書で「貧しい者は幸いです」とストレートに言っていることはいまでも意味があると言う。

 教会でも、神学校でも、キリスト教団体でも、社会でも、困難を通して立ち上げてきて、経済的にも安定してくると、その体制の維持のために動いてしまう。それが力となり権力となってしまう。自分でミニストリーをしていて、そのような構図を描くことができる。新鮮さがなくなり、神を必要としなくなってしまう。「神を忘れてしまう。」

 福音主義神学の最近の動向が気になってきた。特に80年代以降である。80年代に聖書の無誤性のことで自分なりに関わってきた。その後本拠地をアメリカに移し、ミニストリーを立ち上げることに追われ、最近の動きを細かく観察する余裕がなかった。しかしいろいろなことを通して気になってきた。気になり出すと、もともと現代神学には関心を持ってきたので、さらに気になってくる。

 一つだけ気になっていることは、福音主義が体制の維持に動き出していることである。福音主義神学は50年代、60年代自由主義神学との闘いの中で自分たちのあり方を築いてきた。70年代、80年代には福音主義は社会的にも認知され、教会、神学の主流にもなってきた。いまは一度築いたものがあたかも聖書そのものでもあるかのような雰囲気を持ってきている。人の心の動き、社会との接点を失ってきている。現代の動きに目を向けることが聖書的でないとも言う。

 福音主義が体制の維持に腐心すると、それが力になり権力になってしまう。新しい風が入らなくなる。

内側から崩れてくる。崩れるのを待つしかないときもある。しかし新しい動きもでてきている。新しい風も吹いている。福音主義が確立した基本的な姿勢を確認しながら、その周辺で新しい視点が芽生えている。注意して観察するとそのような視点は聖書にはじめからあったものであることが分かる。福音主義神学が自由主義神学を相手にしているときには見落としてしまっただけである。

 福音主義神学がこれからどのような方向に動いていくのか、目を離せなくなっている。

 上沼昌雄記