「観想について」 2004年4月5日(月)
霊性(Spirituality)というテーマが取り上げられているなかで、瞑想(Meditation)と観想(Contemplation)ということが霊性を養う手だてとして注目されている。
瞑想は「思い巡らす」ことで、みことばと自分の人生を思い巡らすことである。観想は、瞑想のように対象がはっきりしていることではなく、瞑想を通り越して神との親密さ、キリストとの一体感のなかにある心といえる。ヘンリ・ナウエンは有名な『イエスの御名で』のなかで、「観想的な祈りの恵み」を神に近づく訓練としている。その「観想的な祈り」に関して訳者が「沈黙のうちに神の最初の愛と臨在に浸り、神ご自身と密接に結ばれることを求める祈り」と注を付けている。
瞑想は、直接的にはみことばを思い巡らすことである。それは同時に思い巡らしている自分自身を思い巡らすことでもある。思い巡らしているのは知性ではなくて自分の心である。みことばを思い巡らしながらそこで気づいてうなずいている自分自分を思い巡らすことである。みことばの知的な理解では論理的な整合性が求められるだけであって、自分の人生は脇に置かれなければならない。瞑想はみことばに動かされ、うなずいている自分の心をも思い巡らすことである。神との霊的な交わりを深める大切な手だてである。
聖書では次のように使われている。
「私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみ業を静かに考えよう。」(詩篇77:12)「しかしマリヤは、これらのことをすべて心の納めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)
観想は、瞑想によって取り扱われた心をそのまま受け止めている状態である。意志的な作業でもなく、意識的な作業でもない。心をむなしくした状態である。しかしそれは、没我状態でも、恍惚状態でもない。静かに神と交わっている心である。4世紀のニュッサのグレゴリオスは「さめた眠り」ともいっている。
カトリックのなかに観想修道院と呼ばれる厳しい訓練をするグループがある。マザー・テレサもこの人たちの指導を受けていたという。それで観想というのがカトリックの専売特許のように思われている。
しかし、実際には観想のテーマは初代教会から取り上げられている。
さらに観想(θεωρια)というは、ギリシャ哲学のなかで魂が超越者(神)とひとつになるために肉の世界、物質の世界を浄化しながら神の世界に上昇していく手だてであった。仏教の悟りに近い感じである。
霊肉二元論のギリシャ哲学では、肉を否定して霊の世界で生きることが理想であった。観想は、見える世界から見えない世界へ乗り越えるための重要な手段であった。
この観想というのが初代教会のなかで使われてきた時に、ギリシャ哲学とは決定的な違いを克服しながら観想の意味を捉えてきた。というのは、聖書からでは私たちがどんなに肉体を整え、心を清めても決して神には近づくことはできないからである。神と私達との間には乗り越えられない断絶がある。また霊肉二元論のように物質を悪とは見なさないで、神の被造物として受け止めている。
ニュッサのグレゴリオスは初代教会でこのような理解を明確にしながら神学と霊性を調和をもって理解していたといわれる。そのために彼は観想を上昇ではなく、むしろ下降という意味で捉えていた。
『モーセの生涯』という本で、モーセがシナイ山に登っていくのであるが、雲の中に入っていって闇の中で神の声を聞いていくことを観想のあり方と見ている。すなわち、より知的理解が深まって上昇するように神に近づいていくのではなくて、闇の中でどうすることもできない下降の状態で、ただ神が近づいてくれることを待つのである。この本の157節で次のようにいっている。
「だが、神を観想することは、見られるものによっても聞こえるものによっても生起せず、日常慣れ親しんでいるいかなる名称によっても把握されない。それは『目がそれを見ず、耳が聞かず、人の心に通常入り込んでくるものでもないのである』(1コリント2:9,イザヤ64:4)」
ニュッサのグレゴリオスは神の観想を「闇のなかで神に会う」と呼んでいる。この意味合いは、ロマ書7章でパウロが自分の心のなかを見据えて、そこで自分のなかに住みついている罪に直面して、その罪のために死んでくださったキリストがいま自分のうちに住んでいるということでキリストとの一体感を捉えていったことと結びついている。観想はこの意味で、自分のなかに下ることで神が近づいていてくださることを気づくことである。自分の心に神の光が当てられることを良しとして待つことである。
聖書の文字通りの解釈とその論理性を大切にしているプロテスタントの福音主義では観想ということを神秘的なこととして避けている。カトリックの専売特許と見ている。しかし、教会の歴史のなかではカトリックのはるか前の初代教会のなかですでに取り入れられ来たことが分かる。主権的な恵みを大切にしている私たちにとって、神の恵みの臨在感を獲得するための手だてとして、観想のテーマを見直してよいのかも知れない。
観想(θεωρια)というのは、新約聖書で一度だけイエスの十字架の時に神殿が二つに割れた「この光景」(ルカ23:48)という表現で使われている。しかしこの動詞であるθεωρεωは頻繁に使われている。
「マグダラのマリヤとヨセフの母マリヤとは、イエスの納められるところをよく見ていた。」(マルコ15:47)
サマリヤの女がイエスに「先生。あなたは預言者だと思います。」(ヨハネ4;19)「事実、私の父のみ心は、子を見て信じる者がみな永遠の命を持つことです。」(ヨハネ6:40)すなわちθεωρεωは、見る行為であるが、単なる肉眼的に見ることでないことが分かる。見ていることを通してその向こうにある霊的な事実に気づくことである。霊的な視点ともいえそうである。み言葉を学びながらはっと気づかされて神の臨在の前に沈黙している時である。
みことばを学び思い巡らしながら、神の前にただ黙って厳粛にでていくような経験をいただくことがある。それを思うと観想というのは身近なところから始まっていることが分かる。神との親密さ、キリストとの一体感をいただくためのひとつの手だてとして、観想について試行錯誤をしている。
上沼昌雄記