ウイークリー瞑想 「受肉の神学、クリスマスの神学」 2004年11月25日(木)
長男が2週間ほど前に帰ってきたときに、彼が教会のユース・グループで月一度の割で説教をしていることが話題になった。感謝祭が終わって、降誕節に入った最初の日曜の夜にキリストの降誕のことについて話すと言うことで、妻が私の理解を彼に説明をしたことで、受肉のことで語り合うことになった。端的には、クリスマスはキリストの誕生のお祝いというより、自分自身の、そして全人類の、さらに万物の救いの必要を再確認するときである。そして、自分の罪のために神が肉を持つ必要があったことを思い起こして厳粛に過ごす時である。
この理解は歴史的には、初代教会の信仰告白である325年のニケア信条でみることができる。すなわち、救いの理解を受肉との結びつきで明確に捉えている。「主は、私たち人間のため、また私たちの救いのために降り、肉を取り、人となられた。そして、苦しみを受け、三日目によみがえり、天に昇られた。さらに、生きているものと死んだものとをさばくために来られる。」救いが受肉から始まって、十字架、復活、昇天のキリストの一連のプロセスで救完成していることが分かる。ピリピ書2章6−11節のキリストの謙卑といわれる箇所を思い起こされる。
これに対して、プロテスタントというより西欧のキリスト論と救済論は十字架を中心に展開している。私たちの信仰告白が物語っている。キリストは「真の人であり、真の神であり、処女マリヤより生まれ、私たちの救いのために十字架にかかり」と理解している。すなわち、救いの理解が十字架から始まっていることが分かる。誕生に関しては処女降誕の面が捉えられているだけで、救いとの結びつきは考えられていない。
教理史的にはこの違いは、ニケア信条の骨格に関わった4世紀のアタナシウスの『神のことばの受肉』と、11世紀のアンセルムスの『なぜ神は人と(Cur Deus Homo)』に端的に現れている。前者はギリシャ教父の理解であり、ギリシャ正教会に受け継がれている。後者は中世カトリックの理解であり、西欧の世界に受け継がれている。プロテスタントも、キリスト論と救済論に関してはアンセルムスを踏襲していると言える。心理的には前者はクリスマスを、自分の罪を思い、人とならなければならなかった神のみ思いを思って厳かに過ごす。後者は、キリストの誕生のお祝いということで賑やかに過ごす。
救済論を受肉から始めるのか、十字架から始めるのかで神学の展開が異なってくる。救いの理解を受肉から捉えていない欠けを、西欧の神学者も気づいてきている。受肉の神学が言われるようになってきた。捉え直しが始まっている。時間がかかることである。しかしニケア信条の意味は重きをましてきている。
長男は、この違いがよく分かると言って早速ノートにまとめていた。そして昨晩語った内容のあらすじを電話で話してくれた。よくポイントを捉えまとめていると思った。
そんなことがあって、1995年のクリスマスのニュースレターとして「なぜ神は人となられたかー御子の受肉ークリスマスを迎えて思い巡らすこと」というテーマで、ニケア信条で明記されている受肉と救いの結びつきを聖書からまとめたことを思い起こした。ロマ書8章3節でのパウロの受肉の理解を中心に展開している。3代前のコンピュータに残っていた記事を何とか今のものに移すことができた。少しだけ改訂をした。添付しておく。
クリスマスがキリストの誕生のお祝いで終わってしまったら、受肉の神学は成り立たない。キリストに近づくことができない。クリスマスは、救いを必要としている自分を静かに見つめるときである。そしてその私をなお見つめて、ひとり子を私と同じ肉で遣わされた神のみ思いを静かに味わうときである。
上沼昌雄記