ウイークリー瞑想 「十字架を負う慰め」 2004年6月3日(木)
過ぎる週末にポートランドの日本人教会の聖書塾での2回目の講義に伺いました。昨年の12月に神論を講義させていただきました。今回は「罪と義とクリスチャンの関係」というテーマでした。神論では、神を知ることと自分を知ることとが深く結びついていることを学びました。
今回は、罪と恵み、つまり、アダムとキリストが自分の中でどのような関わりを持っているのかを学びました。そのために12名の塾生が自分のうちにあることを、ロマ書をテキストに静かに見つめていくことになりました。神論で始まった自分史の探求が、今回さらに深く自分の心に向きあうことになりました。
罪の現実を直視しながら、それを覆う恵みの現実をどこで確認するのかという話になりました。すなわち、キリストとの一体感をどのように自分のものとする事が出来るのかということです。
ひとつは、キリストが「自分を捨て、自分の十字架を負い、私について来なさい」(マタイ16:24)と言われていることを、どこで納得できるのかと言うことになりました。自分が負わされている重荷を自分の十字架として納得して、キリストに従うことが出来れば、キリストと一つだと言えるのではないかと言うことです。何かうまく行っている時にキリストと一つであるというのとは違うのです。負わされている重荷の中でキリストとの一体感を獲得できるのです。
すでに一人一人が負わされている重荷があることを語り合ってきました。クラスで出た個人的なことは一切外に出さないという約束をしていることもあって、皆さんが自分の生い立ちに関わることまで話してくださいました。お互いに長く知り合っていても初めて聞く話もあったようです。語りながら皆さんが明るくなっていくのが分かりました。 御霊の自由を感じました。
ひとりの年輩のご婦人が息子さんの子ども、すなわちお孫さんを面倒みていることを話して下さいました。お母さんと時々しか会えないお孫さんの心境を涙を持って語ってくれました。祈っていることはその子が高校を卒業するまで生かしてほしいということでした。そうすると90歳近くになられると言うことです。現実には小さいお孫さんのために体を鞭叩いて頑張っている様子です。
話の前後で「それが負わされている十字架なのですね」ということになりました。どのような理由によることなのか知る必要もないことで、ただ現実として小さいお孫さんを引き取って受けている苦しみのゆえに、お孫さんが生かされていく道があるのです。キリストの受難(パッション)のゆえに私たちが生きることができるように、自分が負わされる十字架で誰かが生きていくことができるのです。苦しみは誰かを生かすのです。苦しみには代償がともなっています。自分が苦しむことで誰かが生きるのです。
このことがこのご婦人の中に深い納得をもたらしたようです。その後に続くクラスで目を輝かして聞いていました。キリストが自分の中で生きている事実を噛みしめているようでした。とても印象的でした。
しかし現実には疲れ果ててしまう毎日です。自分の体が痛んでも気力で立ち上がっているのです。本当はゆっくりと余生を送りたかったのです。それが許されないのです。キリストとともに自分の十字架を負うためです。それでしかキリストが自分の中に生きているという現実を知る手だてはないのです。
自分だけに負わされている重荷と思っていたものが、キリストとともに負うくびきであると納得して、慰めを得るのです。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:30)と言われるキリストのことばに不思議にうなずけるのです。