ウイークリー瞑想 「人はなぜ山に向かって目を上げるのか」 2004年10月4日(月)
人はなぜ山に向かって目を上げるのであろうか。山辺の向こうにしか助けのないことに気づいたからである。山辺のこちら側にはもはや手の打ちどころがなくなってしまった。
できるだけのことはしてみたが、もはや山辺このこちら側には希望のないことが分かった。どこにも助けを求めることができない。山辺の向こうに信頼して目を上げるだけである。
目を上げても山辺の向こうから助けが来るのだろうかと嘆く以外にない。「私の助けは、どこから来るのであろうか。」(詩篇121:1)信じているのか、嘆いているのか分からない。「どこから来るのだろうか。」答えがない。ただ山辺に向かって目を上げるだけである。
山辺も見上げることのできない「死の陰の谷」を歩んできたことを振り返る。深い闇の谷間で、死の臭いがするだけである。見上げる山辺がない。闇に覆われた死の陰である。
いま不思議にその谷間を脱出できて、山辺を見上げることができる。過ぎ去った谷間を思い、見上げる山辺を見ながら、助けは、この谷を造り、山を造られた神からのみ来ると気づく。「助けは、天地を造られた主から来る。」(2節)
自分が通り過ぎた谷間も、見上げる山辺も、それらを造られた神がいて成り立っていることに気づく。
それであれば、助けはその主からのみ届いてくることが分かる。私を谷に導き、山辺に導いてくださった主が助けを届けてくださると信じる。
その信頼を持ってただ静かに待つ。谷と山辺を私のためにおかれた主は、まどろむことなく私を守っていてくださることが分かる。私は嘆きつかれて休むことがあっても、主は眠ることなく私を守っていてくださる。
上沼昌雄記
追伸:先週末から日本での奉仕を始めました。この水曜日にはシンガポールでの奉仕に入ります。主にある交わり、お祈りを感謝いたします。