〜 Weekly Meditation〜


ウイークリー瞑想 「初めの雨」 2004年9月20日(月)

 昨日は5ヶ月ぶりに雨が降りました。しかもしっかりと降りました。天気予報で雨の可能性を告げていたのですが、ほんのお湿り程度と思っていました。現実には水浸しになったところが結構あったようです。

 いつもの年ですと10月に入ってようやく雨が降り出してくるのですが、そのときにはこの数年日本での奉仕をしていましたので、乾燥しきったあとの最初の雨を経験したのは久しぶりです。しかもしっかりと降りましたので驚いています。同時に山火事の危険から少し解放されました。

 前回のウイークリー瞑想で「夏のひでりでかわききった」というテーマで書きました。太陽の熱さで大地も木々も植物も乾ききっていました。火がついたら手の施しようもないほど乾ききっています。皮膚も乾ききってカサカサになります。すべてが太陽の下に干し上がってしまいます。一滴の水も許さないかのように干し上がってしまいます。

 昨日の雨はそんなことが嘘であったかのように、地は暗くなり、教会に行く途中からぽつぽつと降り出し、礼拝中も、午後の交わりの間も地を打つような激しさで降っていました。その前日に物置の屋根を何とか張り終えたところでしたので、不思議なタイミングに驚き、同時に雨漏りはないだろうかと心配にもなりました。

 教会から戻り、雨がようやく上がったあと妻と一緒に外にでて物置を確認して、雨漏りはないようなので安心をしました。そのまましばらく外で深呼吸をしていましたら、何ともいえない甘い感じの臭いがしているのに気づきました。乾ききった木々の皮が水を得て生き返り、樹木のなかに溜まっていた液を吐き出しているような感じの臭いでした。木々が生きているのだと叫んでいるようでした。

 乾燥した地でいま生活を許されていて、聖書で「初めの雨」と訳されている「秋の雨」の祝福を味わってきたイスラエルの民の喜びを少しだけ味わうことができました。「シオンの子らよ、あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを、降らせてくださるからだ。」(ヨエル書2:23)

 初めの雨がなければ、地は死んだままで、イスラエルの民は収穫の実にありつくことができません。初めの雨は私たちを救うためです。主を信じてきた民の義の証でもあります。約束の真実の証でもあります。
この夏は暑さ、熱さで自分がひからびて行くのが分かりました。このまま干し上がってしまうのではないかとも思いました。

 初めの雨がもたらしてくれた甘い臭いが体にしみ込んでくることで、ただ主の真実に生
かされていることを体で味わうことができました。今朝は朝から太陽がでてきて、昨日の雨でホコリだらけだった大地がきれいに洗われて輝いていました。「地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。」(ヨエル書2:21)


 上沼昌雄記