〜 Weekly Meditation〜


■「裸の自我」 2004年3月8日(月)

 
 昨年の10月に93歳の大村晴雄先生をお訪ねして、神の前に毅然と立つプロテスタントの精神の話になり、それを「新しい自我」ということでまとめた。話の突端は、私がいろいろなところを回っているので「何か感じるものがある」という質問を先生からいただいたからであった。その私なりに「いろいろなところ」で経験させられていて、「新しい自我」の芽生えというか、叫びといったらよいのか、ともかく何かをかなり強烈に感じさせられているのは、アメリカでの日本人との交わりである。

 特にアメリカにきている若い日本人の間である。家族でアメリカに移り住んで15年になるが、その間に日本人クリスチャン留学生のネットワークが、数年おきに持たれているInter Varsityのアーバナ宣教大会を契機にして始まった。30年前にKGKの主事をしていたことがあったということを知っていた方の招きで関わることになった。この働きは今はJCFN(Japanese Christian Fellowship Network) として独立した法人として、デンバーのOMFの本部のなかに事務所をもって活動している。数年前から日本の事務所をお茶の水に開設して、帰国者のフォローアップをしている。

 私は理事として関わっているので直接の留学生との関わりはない。しかし修養会に参加するたびに若い方々が生き生きと奉仕をし、賛美をしている姿を見せられる。日本では皆が乗ってくるのに時間がかかると思うところを、最初の集会で心が開かれてしまう。アメリカの雰囲気をすでに経験しているのも助かっているのだと思う。乗りの早いのに驚かされる。解放感・開放感を味わっている。

 2年、3年前に南カリフォルニアでイクイッパー・カンファレンスをもった。350名ほどの参加者をいただいた。日本からの参加者もいた。講師はふたりとも友人であった。若い方の反応を肌で感じることができた。解放されているのでみことばがよく届いていく。最後の証会ですばらしい証を聞けると期待した。しかし期待したのとは違ったものを聞くことになった。代わる代わる前にでてきて語ってくれるのは、何か内にあるものが、その柵が取れてあふれ出てくるような叫びといったらよいのか、うめきであった。若い男性の心であった。

 この2回の証会で聞いた叫びは、今でも心に残っている。決して聞き心地の良いものではなかった。そのまま蓋を閉めておいておきたかったようなものである。しかし、それがでてきたことで心の深くに届いていたのが分かる。もちろん細かい背景は分からない。ただ裸の自我がそのままでてきたことは分かる。その後どのようになっているのかも分からない。ひとりひとりのなかに聖霊による心の印象が残っていると信じている。

 日本人がアメリカにきた時に、家族の絆が一時的に切れ、学校や仕事の人間関係のややこしさから解放され、社会の重圧から解き放たれて、心のなかにあったものが避けることのできないかたちででてくる。自分のことを話しても、それがどのように受け取られるのかを日本にいるようには気にしなくてすむ。夫婦の場合には日本にいるよりはるかに顔を合わせている時が多い。対面する以外にない。ミニストリーで心のことに触れることができる時に、裸の状態がでてくる。そして、心が裸になることで自由させられる。

 同じことが日本では起こらないといっているのではない。またアメリカにきたら自動的に起きるといっているのでもない。さらにアメリカ人は皆自由にされているといっているのでもない。アメリカに長く住むようになって、社会的には自由な面が多いが、霊的な意味では自由にされていないことを知らされている。ただ日本人がアメリカにきた時に、解放感のあるアメリカの雰囲気のなかで、霊的に自由にされて裸の自我に直面させられることで、神との新しい関係が展開していくことが分かる。

 クリスチャンとしての願いは、神により近づくことである。しかしそれは、裸の自分に対面させられることによってなされる。逆説的に聞こえるのであるが、神に対面するためには、ありのままの自分に対面することで、その裸の自分に神が届いてくださることに気づくことである。ロマ書7書でパウロは「ほんとうにみじめな」自分に気づいたことで、そんな自分のために神が御子を遣わしてくださった神の恵みをより深く感じ取った。裸の自分には何もない、罪だけが住みついている。

その私に今キリストが住んでいてくださっている恵みに圧倒されている。裸なのでキリストはどこまでも入ってくることができる。

 この一見逆説的な姿勢は、後の教会史のなかでもみることができる。4世紀のニッサのグレゴリウスは、モーセが雲のなかで神に出会ったことから、闇のなかで神に合うとみた。感覚では捉えられない神は、把握不可能な闇の中で出会う。人間が方向を指針も出すことも、見ることもできないところで神に出会うと考えた。それで『モーセの生涯』を書いた。宗教改革の影響を受けてカトリックの内部の改革を試みた16世紀の十字架の聖ヨハネは、真っ暗闇を通して、すなわち、タマネギの皮のように一枚一枚はがされて、何もなくなった無の状態で初めて神に近づくことができると考えた。それで『暗夜』を書いた。

 カリフォルニアの明るい太陽の下で暗い話になった。しかし、意味していることは光である神のその光が強くなればなるほど、こちらの隠れている部分の闇が強くなることである。その闇を認めて光に当てていただけばよい。裸の自我が太陽の下にさらされたらばよい。辛いことであるが、
それしかないのだろうとも思う。

 裸の自我に比較的ストレートにつきあえるアメリカでの邦人伝道が、JCFNというかたちで起こされた。帰国者も多く起こされている。JCFNは太平洋を挟んで活動いている。今週末から日米の合同主事会と理事会がサンフランシスコ郊外とサクラメントで持たれる。私のミニストリーの理事である方と、私のミニストリーとJCFNの理事でもある先生のお世話になる。裸の自我に向き合うために起こされたひとつの働きである。

上沼昌雄記