ウイークリー瞑想 「父母、そして記憶」 2004年6月21日(月)
5月の初めに札幌の教会で3回目の男性集会を持ちました。私たちのうちに想像以上に意味を持っている父と母のことを取り上げました。ものの考え方や感じ方をほとんどと言ってよいほどに父母から受け継いでいます。同時にそれらを否定しながら何とかよい方向にと願っています。しかし、結局同じことを繰り返してしまいます。父母のことは意識下に押さえ込んでいるのですが、現実には無意識のうちに同じように生きてしまいます。
集会では詩篇の中、ダビデの二つのことばを手がかりにしました。
「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(51:5)
「それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(139:13)
両方ともダビデの罪のことに関わっています。初めは罪を認めて悔い改めているところで、次は自分の罪の現実を振り返って神の創造を感謝しているところです。どうしてダビデが母のこと、母の胎内のことにまで思いをはせることができたのか分かりません。ただ人生の危機の中で母のことにまで思いが行きました。
父のことが出て来ません。マタイ20章でもイエスがエルサレムで十字架にかかることを弟子たちだけに語った時に、いきなりゼベダイの子たちの母がでてきます。父の存在が見えません。その分だけイエスの放蕩息子の帰郷のたとえは意味がありそうです。
そこでは母が見えません。同じように三位一体の父なる神に立ち返ることも意味があるのでしょう。
このようなことを前置きとして20数名の兄弟たちに自分の父母のことで気づいたことを分かち合っていただきました。男性集会では個人的なことで出て来た事はいっさい外にださいないという約束でしていますが、1人1人が自分の中に父と母が生きていることを正直に語ってくれました。それは御霊の自由によることです。両親のコミュニケーションを見ていないこと、離婚をされた両親のこと、小さい時にお母さんを亡くされたこと、結局人生は孤独だと思わされること、父は私の友であったこと。
お互いに自分たちの親のことについて聞くのは初めてであったかも知れません。それでもそれぞれの状況は違っていながら、親に対して持っているわだかまりや怒りや感謝の思いや感情がどこかで共通なものであることが分かります。不思議にお互いに納得できます。それらの思いや感情は私たちの記憶の奥深くに留まっています。自分の夫婦関係、親子の関わりの中で思い出したように顔を出してきます。
そして私たちを苦しめます。また私たちを喜ばせてくれます。善し悪しの問題ではありません。自分のうちにある父母への思いを自分のなかで認めることで神の光をいただけます。
父母のことは過去であり、現在であり、未来でもあります。いつも記憶の奥深くに生きています。心の底に留まっています。神の光が奥深くまで届いてくるときに記憶が私たちの意識の中に居場所を見つけます。自分が父母の子であることを確認できます。ダビデが自分の罪を知らされたときに母の胎内にまで遡っていることに通じるようです。あるいはパウロがロマ書で自分のうちに住む罪を知らされたときにアダムの罪にまで遡っていることに通じるのかも知れません。
「父の日」を札幌での男性集会を思い起こしながら迎えました。その教会の牧師とは幼稚園の時からの友人です。しかし2年前ほど前にテロ事件や戦争の話をしている時に、太平洋戦争の終わりに故郷前橋が空襲にあった日にそれぞれの母がそれぞれの子である私たちを背負って何とか逃げて助かったことを知りました。互いに母から何度も聞いていたことでした。
上沼昌雄記