〜 Weekly Meditation〜


■「土台を据える」 2004年3月22日(月)

 ものを置く物置が必要になって土台作りを始めています。
雑草や木の根っこを取り除いて整地をして、糸を張って正確な場所を定めるところまで来ました。土台のための溝掘りが次の仕事です。

 物置なので家のような土台は必要ないのですが、この作業に取りかかってから、10数年前に不思議な導きで家を建てることになった時のことを思い起こしています。コンクリートの土台のための枠を作る作業は土との闘いでもありました。ジーンズが泥だらけになる一番大変な辛い作業でした。二度としたくないと思っていました。今回の物置の土台作りのためにこの感覚を乗り越えなければなりませんでした。

 物置なので簡単な土台でもよいのですが、3x5メートル四方なのでコンクリートの土台を作ることにしています。コンクリートの半分以上は地中に隠れてしまうのですが、土台がしっかりして床ができると、それから先は建物が建っていく目に見える作業なので楽しくできます。10数年前に土台が終わって、床を張り終えてその上に立った時に、不思議に半分以上は終わったような満足感と、土台ができたのでそのままにはできないので必ずこの上に家を建てなければならないという義務感のような両方の感じをもったことを覚えています。土台だけを作って終わるわけには行かないのです。

 コンコーダンスで聖書のあることばを調べていました。ルカの福音書でイエスが次のように語っている箇所に出会いました。「基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。」(14:29,30)
まさにその通りです。

 土台作りを始めた自分に言われているようにも思えるし、何ともユーモアに溢れたことのように思えました。当時の家の造り方を知らないのですが、イエスも大工の子として土台を築いて、その上に立って同じような感じをもったのだろうと勝手に想像しています。

 土台を作るというのは、手抜きができません。10数年前に枠にコンクリートを入れていた時に、膨れだしてもう少しで崩壊しそうになりました。そうしたら全部やり直しでした。今でもその膨れたコンクリートの部分を見ています。土台の上の建物の部分はやり直しができます。何とかカモフラージュもできます。そして家を見て感心してくれる人もいます。しかし誰も土台には注目しません。それでも手抜きはできないのです。

 また土台はそのままで放っておくわけにいきません。その上に何かを建てなければなりません。そのための土台です。

 パウロが次のように言っています。「与えられた恵みによって、私は賢い建築家のように土台を据えました。その土台とはイエス・キリストです。」(1コリント3:10,11)
この箇所はその上にどのように建てるか問われています。しかしそれ同時に、自分のなかにキリストが土台として据えられているかどうかが問われているように思えます。キリストを信じる信仰はあっても、土台としてしっかり据えられているとは限らないので、建てあげられるものが見えてこないように思えます。

 土台がしっかりと据えられると、その上に建てあげられるものが自然に見えてくるのです。それは楽しい作業です。

 「私はキリストともに十字架に付けられました。もはや私が生きているのではなくて、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と言い切れるパウロには、自分のなかにキリストが土台として据えられることの意味が分かっていたのでしょう。土台の半分以上が地中に隠れるように、その心の深くにキリストを据えるために、ロマ書7章に書かれているように、自分の心の隠れた世界にまで神の光で掘り下がっていったのでしょう。それで弱さや汚れがありながらも、キリストが土台としてしっかりと据えられていたので、その上に建てあげられるものが自然に見えたのでしょう。

 自分のなかにキリストを土台として据える作業、辛いいやな作業、自分の罪の泥との闘いの作業、誰にも見られるわけでない作業、それでも決して手抜きのできない作業、しかし土台ができたらばその上に建てあげられるものを楽しむことのできる作業に、重い腰を上げて取りかかっています。

上沼昌雄記