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サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ


ザ・証し(2)
まもなく彼方の」植草栄一さんの証し(2004年7月28日)
「心の平安」ちゅうもんやろか。仁多尾則子さんの証し(2004年6月17日)
神のなさる事は」井上幸江さんの証し(2004年3月20日)
万事益として下さる神様」辰口優子さんの証し(2004年1月26日)
「絶対なる存在」知葉祥三さんの証し(2003年12月23日)
「ああ、イエス様は凄すぎる」牧野直さんの証し(2003年10月3日)
イエス様に恋して佐々木静さんの証し(2003年9月1日)


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 植草栄一さんの証し
 
(JTJ卒業生)
 
 

 「まもなく彼方の」聖歌687番は私の信仰の原点と言う事が出来ます。私は1934年、昭和9年に東京の、その頃は、浅草区小島町、現在は台東区小島という下町に生まれました。父は小さな町工場を相手に、旋盤という工作機械をそれも中古の物を注文に応じて探し出して売り込む、仲介業を営んでいました。3番目として生まれた私でしたが、上の兄と姉は幼くして死亡し、私も生まれながら病弱で「大丈夫かな」と思われつつ育てられてきました。

 そんな私に母は子守唄として聖歌を聞かせてくれていたのです。ずっと後になって叔母が教えてくれたのは、母は幼くして奉公に出され、その家の幼い娘さんの話し相手、遊び相手として近くにあった教会の日曜学校に

 毎週通い、賛美を覚えたようです。教会に通うようになって、「これは聖歌だったのか」と分かり大変驚いた事でした。

 私が始めて教会に行ったのは、泳ぎに行って風邪をこじらせ病院へ通いその途中にあった教会に何となく入って行った、確か25歳ぐらいの頃ではないかと記憶しています。勿論心のどこかに寂しさがあったように思いますが、病気(中耳炎)が治るとそのまま、教会へは行かなくなりました。

 街中で牧師夫人にばったり出会って「その後どうしていますか」と声を掛けられ、その時は適当に応えましたが、何か心に責められるものを感じ、再び教会へ行くようになりました。聖書の解き明かしは難しくて分からなかったが、教会の人達の交わりが素晴らしく、世の中にない暖かい物を感じ、それで熱心に通っていました。

 しかし、「救い」と言う事がなかなか分からず又当時それほど切実に求めてもいませんでした。小さな教会で、人も少なかったのですが、一人の熱心な方が何かと声を掛けて下さり励まして下さったのは、両親を早く亡くしている者にとって特別な親しみを覚えて嬉しい事でした。

 多くはなかった信者の中に、今の家内がいてやがて結婚する事になりましたが、結婚前に洗礼を受けなければと言う問題があり、明確な救いの確信を持たないまま、洗礼を受け、その一週間あとの1964年4月に結婚式をその教会で挙げました。

 本当の救いの体験は後年、勤めに疲れ、胃潰瘍を患い入院生活を余儀なくされ、病院のベッドの上で真剣に神を求めた時、聖書の言葉が私の心に強く入ってきました。

 それは、「神は実にその独り子をお与えになったほどに世を愛された」ヨハネ3:16の言葉です。今まで長い間教会に行ってはいても、単なる偽りのクリスチャンでしかなかった。

 だから当然世の中の出来事に振り回されて、身も心も病み、力尽きて倒れる。その様な私に神は聖書を通して長い長いトンネルの先に輝く光を当てて下さった。

 そんな感じがして勇気が出てきました。力が身体の底から湧き上がって来たようでした。長引くと言われた病院生活も驚くほどの回復力により、早くに退院。それからは夢中に

 なって聖書を読むようになり、教会生活も今までとは全く違うものに変えられました。多くの信仰の友が与えられ、家内の祈りに支えられて来たことにより、今日のような

 働きが出来る者とさせていただけた事を、心から深く主なる神に感謝する者です。
 

  
植草栄一   

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 仁多尾則子さんの証し
 
(サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ教会会員
 
 

 私は2児の母親で、神戸生まれの神戸育ち、バリバリの関西人です。アメリカに来て言葉が変ってきて、可笑しな標準語が少し混ざって来たようです。神戸大好き人間ですが、震災以来一度も帰っていません。帰る場所がなくなったからです。

 神戸にいた時、時々教会のチラシを貰って誘われた事がありますが、その時は全く関心も興味もがありませんでした。でもある事を通して神様は私を教会へと導かはったのです(時々関西弁が入ります)。去年の1月父親が突然亡くなりました。

 前の日まで普通の暮らしをしていた父が、次の日の朝、お布団の中で、冷たくなっていたそうです。本当にビックリしました。訳がわかりませんでした。信じられないまま飛行機の中でずっと泣き続け、今茨城に住んでいる母親の所に帰ったらやはり父はいませんでした。いつかはこんな日が来るとは思ってはいても、現実となると信じ難いことでした。

 その頃私は耐えられない様なしんどい試練を抱えていましたので、父の死の悲しみが薄らぐほどでした。

 この教会に導かれたのは、ある友人を通してでした。父親を亡くして落ち込んでいるのではないかと、心配してくれて教会のパンフレットを呉れたのがきっかけでした。父親の死も辛い事ですが、別の問題を抱えており、何処かに行ってしまいたいという気持ちもあり、一度教会に顔を出してみようかと、子供たちに相談してみた所、二人とも行く事に賛成してくれました。

 その日は牧師夫妻は日本に行っておられ、中村益満先生の話でした。ビックリしました。「全て重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者であるから、私のくびきを負うて私に学びなさい。そうすればあなた方の魂に休みが与えられるであろう。私のくびきは負いやすく私の荷は軽いからである。」

 その日初めて私は十字架の意味を知りました。全く何も知らなかったので、驚きました。私が小さい頃から今までしてきた悪い事、「ごめんなさい」と思いました。

 私の罪のために十字架に掛かられたイエス・キリスト様「ごめんなさい」と思いました。生活は無茶苦茶しんどかったのですが教会に来る様になって、私は一人じゃないんだと思えるようになってきました。神様が私と共にいてくれはるんやと、少しづつ心が楽になってきました。1人じゃないんだよ、大丈夫だよと語りかけてくれはる神様に感謝で一杯です。

 神様にお祈りすれば何でも願いが叶えられるんだよと教えて貰ったので、始めの頃一生懸命お祈りしてましたが、叶うどころか、もっと悪い方向に事態が進んで行きました。「えー? ウソやん。 神様なんかおらへんやん。」こんな思いが募ってきました。でもこれ神様が私にお与えにならはった試練だと思い、乗り越えなくっちゃと、「のりこはのりこえられる」なんて、しょうもないこと言いながらも必死でした。

 神様の試練は本当にきつかったです。次から次から、これでもかと言うくらい、呉れはりました。「もうよろしいです。充分です、もうあきまへん、耐えられまへん、倒れそうです」何度文句を言った事でしょう。

 そんな毎日の中で、だんだん違う考え方があることに気がつき始めました。私の願いが全く叶わないのは、もしかして、神様は「あんたには違う人生が待っているんだよ!」って教えてはんのかな、と考えるようになりました。

 それからは、頑張ってればきっと何か良い事ある! 神様は私を見捨てないって、それを信じて今日まで頑張ってきてます。去年は元気がなくて、くたびれかかってましたが、今はけっこう明るく元気な私に戻れたようです。「心の平安」ちゅうもんやろか。神様に感謝です。  

  仁多尾則子
(2003年12月21日受洗)   

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 井上幸江さんの証し
 
(サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ教会会員
 
 

 「手術をすると、そのあと、痛いだろうなあ。嫌だなあ。」

 2002年7月に、乳癌になっている事が分かった時の気持ちです。神様は私を哀れんで下さって絶望的な思いや悲愴感のような思いを与えられませんでした。不思議な程平安な内に手術の日を迎え、11ヶ月余りの間の治療を終える事が出来ました。

 それは、夫が私を気遣い、出来るだけゆったりとした1日が過ごせるように子供達と協力して、家事や雑用を出来るだけ手助けしてくれた事、母が日本からすぐに駆けつけてくれた事、又、手術後には教会の方々が毎日、食事を届けに来て下さり見舞って下さいました。又、カードや電話で、他教会の方々まで、励ましたり、祈って下さいました。

 溢れるほどの愛に包まれて、癌だとか乳房を片方全部取ってしまうとかについての不安な思いが湧きあがって来る時が無かったのです。中風の人が友人達に戸板に乗せられて、イエス様の所へ何としてでも運んで行ってあげようとする愛の如く、皆様の愛の中に浮かびながら、キモセラピーや、放射線セラピーなどの治療の日々が過ぎて行ったのです。

 でも、どうしても知りたい事が出てきました。〈何故、神様は私に癌を患う事を許されたのだろうか。〉それを知りたいと思いました。きっと神様はこの事を通して、私や私の家族に、何かを伝えようとして下さっているに違いない。それは一体何なのか。「それを教えて下さい。それを知らなければ癌に成った値打ちがありません。私に罪があるなら改めますので示して下さい。」と祈り続けました。

 私の夫は人が大勢集っている所が苦手で、私が行きたい所や、友人とのパーティーなどは勿論、ましてや礼拝や教会関係の集会等には、決して一緒に行こうとはしてくれませんでした。でも、私の癌が発覚してからは、毎日曜日欠かさず、2人の子供を教会に送り、私が共に行ける日は、早く起きて手伝ってくれ礼拝に出席してくれるようになりました。この一年半の間病気で3度休んだだけで、ずっと礼拝を守っています。そして、長男は、私が手術をした年のクリスマスに受洗に導かれました。(次男は1998年に受洗)

 妻が、母親が、我が子が大変な病気になってしまった。その夫や子供達、又、母はどんなに心配し、祈り、神様に助けを求めた事か、それを思うと胸が詰まりますが、彼等の愛は、確実に神様の目に止まり、私は完全に神によって癒されたと確信しています。そして、その愛を私は肌で触れ、家族の絆の結び目がしっかりと結ばれている事を見させて頂いたのです。

 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言と祈りとによって、きよめられるからである。(第二テモテ4:4,5)

 井上幸江


「井上幸江さんはこの開拓教会サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップのチャーターメンバーです。この10年間祈りと奉仕で教会を支えてきて下さった中心メンバーでもあります。長年日本で教師をされ、その経験を生かし家を開放して私塾を開いておられます。子供達に対する指導には定評があります

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 辰口優子さんの証し
 
(サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ教会会員
 
 

 安藤先生の所に礼拝ビデオを借りに行ったときに、月に一度順番に証しをしてもらうことになったという話しになったときに「来月、優子さんど う?」と言われて、「他の先輩方をさしおいてとんでもない」と言ってる にもかかわらず、「いつが良いかな?第二は、、あっ!中野先生が 来られる日。これは、導きだ」と言われて、私も神様が用意して下さっ た時だと、感じてお受けしました。

 教会へ来る前の私は、なにか大きな苦しみとか悲しみとかがあったわ けでもなかったのですが、何か、葛藤、苛立ちというようなすっきりしな い思いを抱いていました。ところが、それを友達とかに話しても、「贅 沢な悩みよ」の一言で片付けられていました。確かに何一つ不自由 なく暮らしていたので、そうなのですが、なにか釈然としませんでした。  そんな時、一人のクリスチャンのお友達に「心にはイエス様でないと埋められない穴がある」と言われて、素直に「そうなんだ」となんだか ほっとしたような気になると同時に、【イエスの事をもっと知りたいと】 求めるようになりました。

 でも、人に聞くのも嫌、もともと人の集まる所とか、人の輪に入って  いくのは苦手で、そのうえ、教会やクリスチャンに対して、良くない印象を持っていたので、教会にも行きたくない。ということで、インターネット や、本を読んで一人で調べていました。

 そんな私に神様は、都合良く誤解して特別集会へいくように整えて下さり、カウンセリングのクラスと誤解して出かけていきました。一歩入ってすぐに気がついたのですが、帰るわけにも行かず、始めて生でメッセージを聞く機会が与えられました。

 その時、未信者の方へ向けたイエス様の救いのお話し福音を語って下さったのが、中野先生だったのです。始めて、聞いた私は「なるほど」と思ったのですが、最後のお祈りの時に「イエス様を信じてみようと思われた方は手を上げてお示し下さい」と、聞かれたのですが、頑なに必死で下を向いて抵抗していました。

 そんな私でしたが、その後カウンセリングのクラスに行くようになり、教会へも自然にそれでいて、完璧な方法で導かれました。ただ、相変わらず頑固者というか、頑なな心のままだったのですが、神様は同じように四人の子供さんを育てられた、中野先生の奥様の明子先生のお話しを聞く機会を用意して下さいました。

 その時のお話しの中に、「失敗の子育てだったけれども、御言葉にあるように神様は、万事益としてくださいました」との言葉が心に響きました。初対面の方に自分から声を掛けるということが出来ない性格なのですが「私も四人子供がいます」と明子先生に声をかけたところ、何と言われたのか忘れましたが、背中に手を置いて言葉を掛けて下さいました。今も忘れていない、その手の温もりを感じながら、涙が止まりませんでした。

 そして私も何十年後かに、そんな風に言えるようになっていたい。万事益として下さる神様、イエス様を信じてみたいと明子先生に告白して、共にお祈りをして頂きました。

 それからも、洗礼を受けるまでに頑なな心故にちょっと時間が掛かったのですが、私の思いを良くご存じである神様は、最善の方法と時を備えて下さり、2002年の2月に受洗しました。

 充分、愛されていたという実感がないまま育って大人になった私は、目で見える部分ではなく、見えない部分に一杯問題を抱えていて、その後「神様こそ傲慢、支配的ではないか!」と思うほど、心が飢え乾いていることに気がつきました。

 しかし、サンデースクール、良き交わりの時、背後でのお祈り、信仰書、そしてみ言葉と多くの事を通して、教会へ来るずーっと前から、神様は変わらず愛してくださっていたことに気がつきました。

 とは言っても、まだまだ事々に聖書を読み、主と交わっていかなければすぐに神様の愛が消えて飛んでいってしまうような私ですが、本当に多くの方やいろんな事を通して、語りかけて下さる主に感謝しています。

 私は今、子育てに葛藤しながら、でも家庭の中で何が一番大切な事かを
教えていただきながら、神様の御言葉が今の私を、そして家庭を支えています。
 
 イエス・キリストを知り、イエス様により頼みながら、生かして下さっている事を実感しているこの頃です。この方を皆さんも知っていただければと切に願っています。

 最後に私の大好きな御言葉を読んで終らせていただきます。 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って 召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。ローマ人への手紙 8:28



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 知葉祥三さんの証し
 
(サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ教会会員
 
 

 この証をする機会を与えて下さった主に感謝します。

 私は、戦後の混乱から世の中が落ち着きを取り戻しつつあった昭和25年に6人兄弟の末っ子として東京に生まれました。

 兄弟全員が私立の学校に通うと言う大変恵まれた環境に育ちましたが、そのお陰で、我が侭で自分勝手、自由奔放、やりたい事は何でもやると言った 手の負えないくそガキでした。しかし、厳格であっても他人の為には何でもするという明治生まれの父親と大正生まれの優しい母親に愛情豊かに育てられたせいか、自分で言うのもおかしいですが、感謝な事に悪いことには手を染めることなく育ちました。

 一番上の姉がアメリカ人と結婚してアメリカに住んでいた事もあり、学生時代に遊びに来た時に気候と開放的な環境に惚れ、住みつく事になったロスですが、気が付くともう30年が過ぎました。

 30年のアメリカ生活の中で、この国の文化の底を流れるメ博愛精神モに触れる機会が何度もありましたが、それが何処から来たものかも良く知りませんでした。

 私は若い頃から宗教は嫌いでしたが、この地球と言うか、我々の周りには何か不思議な、メ絶対なる力モみたいな物があるようにはそれとなく感じていました。人間の科学が幾ら進歩したと言っても、所詮科学の力ではせいぜい自然の仕組みの解明が出来る位で、じゃあこの自然を作ってみろと言っても作る事は出来ません。これには何か絶対なる「力」があるに違いない。私は宗教は信じないけどメ絶対的なる力を持つ存在モの事を「神」として?キリスト教の言う神とは違う神として?これまでその神を私の神として信じて生きて来ていました。

 アメリカに渡って来ての30年間、私の目標にしてきた事は、「アメリカン・ドリーム」如何に成功して金を掴むか?!、ひとことで言えばそれだけでした。

 年間何十万ドルも稼ぎ、一月に何千ドルも遊び代に遣うような目茶目茶贅沢な暮らしもしました。その時は仲間とワイワイ楽しい思いをしていたのですが、今思うと心が満たされていた事は無かったというか、なにか空虚な思いでした。沢山いたと思っていた友人達も金を無くすと同時に、潮が引くように消えて行きました。

 一財産無くした後は、これと言った目的もないような生き方を続けていました。

 丁度50歳を過ぎた頃に、これから何を目的にして生きて行こうかと考えていたその時、漠然と、「人助け」と言うキーワードが浮かんできました。ここに住んでいる間に色々な形でアメリカ人の親切に助けられ、この国の文化の底辺にある博愛精神に触れた経験があったからだと思います。それに加えて、自分自身も昔から親父譲りの『人助け好き』、俗に言う<お節介>なだけですが、それで、これからの人生を『人助け』をしながら生きていけないかな? でも、人助けは金が無いと難しいしなあ・・・なんて、ぼんやり考えていました。

 そんな或る日、古くからの友人の女性がいきなり私の家に飛び込んで来て、「ねえねえ、サンタ・バーバラに行かない?」「サンタ・バーバラで何があるのモメ7月に私たちの教会の修養会があるのよ。」

 彼女は昔から私をキリスト教に引き込もうとして、手を変え品を変え攻めてきます。今回も$230する参加費を教会が援助して、一人4泊5日三食付きで$57で全てOK、こんな旨い話はないと言う事で、とうとう心が動かされ、行くことに・・・。

 焼酎やタバコも荷物に詰め込み、参加した後も、毎日海や観光に行ったり、食事時だけは必ず参加という毎日。夜だけはお義理で居眠りしながらも、集会に参加。

 ある晩鶴田さんという方がお話会の後に「聖書の話をしませんか」と声を掛けられた。

 私の方も食事だけという気後れがあったし、自分の考えも伝えておきたい気持ちがあったので、鶴田さんの申し出は渡りに船でした。

 ところが、話しを始めてから私がどんなに宗教の悪口を言っても鶴田さんはにこにこ笑っているだけです。そのうえ、聖書を一回も読んだ事の無い私には、聖書の何処が間違っているかを指摘する事も出来ない有様で喧嘩になりません。結局、鶴田さんから聖書がいかに正しいかの話だけをずっと聞かされ、夜中の2時まで話し込んでしまいました。

 別れ際に、「明日の夜もまたやりましょう」と言われ、「こりゃ、やばい」と思いましたが、引き下がる事も出来ないので、「是非、やりましょう」と強がりだけは言っていました。次の夜も案の定、結果は同じ完敗でした。悔しくて仕方有りません。「こりゃ、自分が聖書の勉強をしないと反論出来ないな」って初めて感じた時でもありました。

 サンタ・バーバラから帰って来てからも悔しさで一杯。くだんの女性が呉れた聖書を読んでみても、さっぱり理解出来ない、「誰か教えて呉れる人いないかなあ」と思っていると、牧師宅で聖書の勉強会をしていると聞き、参加させて貰おうかなと思っても、なかなか体が動きない。

 そんな或る日、修養会から帰って一ヶ月もしない頃にまた例の女性から新たな話が来ます。

 日本から、神学校で教えている先生が来られるので泊めてくれないかとのこと。それまで知らない人は泊めた事ないけど、色々な事教えて貰えるかもしれないと思い、承諾した。名刺を見てビックリ。「桜井國男」、神学博士、法学博士、大学教授と凄い肩書きがずらりと並んで書かれている。

 「おお!! なんか凄い人が来ちゃったぞ。ちょっと苦手なタイプかもしれない??」 

しかし、櫻井先生と話を始めると、何ともきさくな・・・と、言っては失礼ですが、聖書の質問をしても直ぐに、嫌な顔一つせずに教えて下さいます。それも瞬時に答えが帰って来るし、説明が完璧で、理解しやすい。まさに「生き字引」とはこの事か、と思わされる様な方でした。

先生はその日、昼過ぎに我が家に来られたのですが、日本からの旅の疲れもおくびにも出さず、そのまま夜中まで話が続きました。

 その時に不思議な事がありました。夜の11時半に久しく顔を見ていなかった上の娘達から突然電話が掛かり、「パパ、今何しているの?」と言うので「実は今、こう言う方が家に見えていて、お話しているんだ」と伝えると、「分かった,今すぐ、行くね!!」と言ったかと思うと15分後には現れたのです。

 その時は、娘たちが何で電話をしてきて、何で夜中にわざわざ来るのか、ちょっと不思議に思っただけでしたが、今から思うとあの時には聖霊の働きが有ったからだと思います。と言うのは、私の娘たちは小さい頃から教会に行っておりクリスチャンで、私が救われるようにいつも祈っていてくれていたのだそうです。ですから、私の所に偉い先生が来ていると聞くと喜び勇んで駆けつけたという訳だったのですが、それにしても桜井先生が来たその日に電話を掛けて来るとは、不思議な話です。鈍い私はこの事に気が付くまでも、随分時間が掛かりました。

 とうとう午前3時を過ぎてしまったので寝させて戴き、次の日の朝、眠たい眼をこすりこすり起きて来ると先生も直ぐに2階から元気に降りて来られます。また朝食時から、昨晩の話の続きが始まり、昼食を取り、夕食を食べ、また夜更けまで話が続くと言った生活で・・・「この先生は一体何をしにアメリカまで来たの」って首を傾げるくらいに、大切な時間を私個人にさいて下さいました。先生に講義して頂いた時間をすべて記録していた訳ではありませんが、先生が我が家にお泊りになっている2週間の間に少なくとも150時間位の個人教授を受けられた事は素晴らしい恵みであったと今は主に感謝いたします。

 先生からは冗談に、「知葉さん、これは高いよ」って言われましたが、今考えると本当に私の人生にとって貴重な時間でした。先生のお蔭で、今まで私が長い間信じていた「絶対なる存在」神様のお名前が、「主イエス・キリスト」であったと理解した瞬間でした。これらは全て神様の導きであったと今は心から信じています。(導き編 終わり)


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 牧野直さんの証し
 
(サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ教会 インターン生
 
 

 家はクリスチャンホームで小さい時から親に連れられて教会に通っていました。小学校6年生までは嫌々ながらも教会学校に通っていましたが、中学校に入学し、自分の友人関係や行動範囲に広がりが出てくると、次第に教会には行かなくなりました。人一倍好奇心の強い僕は、興味のあることはとりあえずやってみないと気がすまない性質で、中学・高校時代は音楽とスケートボードに明け暮れる毎日でした。

 そんな中、中学3年生のときに洗礼を受けました。当時の自分は、イエス様は信じていましたが、何の興味もありませんでした。僕が洗礼を受けた動機は、親を喜ばせたい、安心させたいというちょっと的外れな動機からです。スケートボードで遊んでばかりで毎日帰りが遅いので、親はことあるごとにスケートボードを止めるように僕に言いました。でもスケートボードが全てだった僕にとってそれは無理な相談で、でもどうにかして親を安心させる方法として思いついたのが洗礼でした。洗礼は受けたものの興味の無い教会には一向に行きませんでした。

 大学卒業後22歳の時に3ヶ月間アラスカを旅しました。当時の僕は不思議と旅に出ると聖書を読んだり祈ったりしていました。それは、東京にいるときにはクリスチャンである自覚すらないのに、旅に出ると他に頼れるものがないので不思議なくらい神様を近くに感じられる気がしたからです。そのアラスカの旅は最初から最後まで祝福の連続でした。出会う人、行く場所全てが素晴らしく、神様の力が働いていると思わざるを得ませんでした。

 日本を発つ前、それまでに読んだアラスカ関連の本の中で最も好きだった本に登場するボブという人物に僕はどうしてもアラスカで会いたいと思っていました。旅の目的の半分以上がそのボブに会う為だと言ってよかったくらいです。会える保証も、約束も全く何もないのにです。旅をはじめて1ヶ月が過ぎた頃、ボブが住む東南アラスカのシトカという町に辿り着きました。雨が降り、霧がかかり、その本に書いてある通りの町並みを目の前にして僕は興奮し、「ついに来たぞ!」と胸を躍らせました。そして泊まっていたユースホステルから海まで歩きながら、神様にこう祈りました。

 「神様、どうかボブと出会わせてください。本には『ボブは幽霊のようで、地元の人間でさえなかなか会うことはない。』と書いてありますが、どうかあなたが会わせてください。アーメン。」祈り終わってメインストリートへの階段を上がっていきました。メインストリートに出た瞬間、何と僕の目の前をボブが自転車に乗って横切りました。僕は目を疑って、走りよって声をかけるとそれは紛れもなくボブ本人でした。祈った5分後でした。僕は興奮しながら日本から来たこと、ボブについて本で読んだことを話しました。

 するとボブは非常に喜んで、家へと招待してくれ、彼の奥さんとお嬢さんを紹介してくれました。そしてシトカの町を2日もかけて案内してくれました。夢を見ているようでした。その日の午後、ボブと別れて一人になって祈ったときに、心の中に「わたしはお前を愛しているよ。わたしの道具として働きなさい。」と響きました。それまで神様の為に生きていくなんて一度も考えたこともなかったのに、涙がどんどん溢れてきました。以前はイエス様と自分には何の関係もないし、訳が分からんと思っていたのに「ああ、こういうことだったんだ。神様は本当に生きていて、俺に関心を持っていて、本当に自分は愛されている。」と心にビンビン感じました。そしてその献身の思いを胸に日本に帰国しました。しかし問題はここからでした。

 日本に帰ってくると、あれほど燃えていた献身の思いが日を追うごとに薄らいでいきました。

 当時の自分には他にやりたい仕事もあり、神学校に通うことにもかなりの抵抗を感じて、結局献身に180度背を向けて就職をしました。最初は順風満帆の日々でしたが、働き出して1年半を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなってきました。その頃は、自分が召命を受けたこともすっかり頭から消えていて、仕事が自分のすべてといった感じで、人から評価され、期待され、認められることが生き甲斐でした。教会に行かないどころか、祈ることもほとんどしなくなって、自分の力で生きていけると本気で思っていた気がします。

 でも、1年を過ぎた頃から会社の中での職務上の責任や、人間関係にかなりのストレスを感じるようになってきました。そのうちにそのストレスに追い討ちをかけるように失恋が重なり、精神的にかなり落ち込んだ鬱的な日々が続くようになりました。人から認められること、結果を出すことに全精力を傾けていた当時の自分は、表面上は楽しく装っていましたが、心の中は神様から召命をもらって喜んで力に溢れていた自分とは全く対照的でした。ストレスや失恋が重なっただけで、あっという間にそれまでの力強い自分はガラガラと崩れていきました。そうなったときにはどんなに頑張って人から評価されても、物質的に満たされても、良い結果を残しても心の空しさや不安は消えませんでした。

 一番大切な何かが、自分の中からすっぽり抜け落ちている気はするけれど、それが何なのかが分からないといった感じでした。何の為に生きているんだろう、これからどこに向かって歩いていけばいいんだろうと考えれば考えるほど何とも言えない重い暗い気持ちになって、生まれてはじめて死にたいと思いました。

 そうした中で2週間の休暇をとって再びアラスカに行きました。その旅の中で、自分が本当に身勝手だったことを謝り、そしてこの苦しさから解放して欲しいと祈りました。すると2年前と同じように「わたしの道具として働きなさい。わたしはお前を愛しているよ。」と心の中に響きました。すると次の瞬間に今まで心の中に垂れ込めていた雨雲のような空しさや憂鬱が一気に吹き飛ぶのが分かりました。驚きでした。何も現実は変わってないのに心が平安と希望で溢れてきました。もしイエス様がいなかったら自分は自殺していたか、良くても人生に失望して生きていたかのどちらかだと思います。

 でも大逆転が心に起きました。「ああ、イエス様は凄すぎる。今度こそ本当にイエス様の為に生きていこう。苦しんで絶望している人にイエス様を伝えよう。」そう心に決め、JTJでの学びを経て現在に至ります。回り道をしたような、でも自分にはこの経験が絶対に必要だったようなそんな感じですが、とにかく今はイエス様を知って生きていけることが何よりも幸せです。



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 佐々木静さんの証し
 
(サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ教会員 2003年3月22日受洗)
 
 

 私が初めてイエス様と出会ったのは幼稚園の時です。近くにある幼稚園ではなく、少し離れた教会の幼稚園に通いました。日曜日にはミサがありました。そんな中、小学2年生くらいまで、ひとりで日曜学校に通っていました。小さい頃から、お話や歌が大好きだったので、日曜学校が楽しかったのです。

 とは言うものの、その当時にどんなことを学んでいたかは、あまり記憶にないのですが、ひとつだけずっと覚えているお話があります。イエス様が十字架にかかる時に、2人の強盗が一緒で、ひとりは悪態をついて、もうひとりは、イエス様を信じることを告白したというくだりです。「どんなに悪いことをしていても、教会に通ったことがなくても、『イエス様を信じます』と告白するだけで、神様は許して下さる、優しい方なんだなあ」と強烈に心に焼き付いて、大人になってもずっと離れませんでした。

 私は、超がつくほど楽天家ですが、人並みに悩みもあります。いつも明るく元気があって、名前と正反対だと周りから言われ続けてきました。友達には相談を持ち掛けられたりしても、誰も私が落ち込んだりするなど信じてくれず、自分をしっかり強くしなくては・・・という強迫観念のようなものにずっと囚われていました。生きていくのに大切なのは、自分の信念をしっかり持つこと、自分を見失わなければ絶対大丈夫だと思うようになっていました。神様の存在は、心のどこかにあるけれど、イエス様と決め付けなくてもいいじゃないか、宗教は心の弱い人が必要なもので、私には無縁だと思っていました。

 でも、大人になればなるほど、自分の弱さを目の当たりにするようになり、もがき苦しんでも処理できない心の葛藤があって、笑っていても心が空しく、辛い日々が続きました。そんな時に、突然娘が「イエス様のことが知りたい」と言い出しました。知り合いに安藤先生を紹介してもらい、初めて教会へ足を運んだ時のメッセージは、マタイ6章「空の鳥も野の花も神様に養われている。明日のことを思い煩うのはやめなさい」というものでした。神様はすべて私の状況を知っておられて、教会へと導いて下さったことは驚きでした。

 心が乾き切っていた私に、御言葉がどんどん染み込んできました。賛美をすると、涙があふれ、神様の愛が迫ってきました。こんな意地っ張りの私のために、2千年も前に十字架上で死んで下さって、ずっと私を待っていて下さった。私はイエス様を信じることによって完全に変えられました。

 聖書を学び賛美をする中で、心に平安が得られ、辛い状況は続いても、喜びに満たされ毎日を過ごすことができるようになりました。「あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時にそれに耐えられるように、逃れる道も備えてくださるのである」第1コリント10:13. 

 私を神様に立ち返らせるために、この試練を与えて下さったことに感謝しています。

 いま私はイエス様に恋をしています。いつも傍近くおられるイエス様に祈り、御言葉によって生かされていることを日々実感しています。ありのままの私を愛し、慈しんで下さり、命まで捨ててくださったイエス様のために、こんな私でも少しでも神様のために用いられるように、これからも信仰の道をまっすぐに歩んで行きたいです。

 「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされる業を初めから終わりまで見極めることはできない。」伝道の書 3:11  

 主に感謝しつつ、 佐々木静

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