|
「オペラな日々」 2002.11.1
|
演奏とは何か? なぜ演奏が一つの芸術形式とみなされるのか?これについてお話を展開してみたいと思います。
まず最初の申し上げておきたいのですが、真の演奏は、その芸術性を保証する大原理「真実か否か」に依存するということです。また逆に演奏の真の定義付けにこの原理を直接申し上げても結構です。
このような言い方では、謎めいているとお思いになられるでしょうから、ひとつ私の身に起こった出来事をお証して、その内容を明らかにしたいと思います。
*常盤台バプテスト教会聖歌隊指導の際のエピソード
1997年、常盤台教会聖歌隊のCD「心に歌えば」のスタジオ録音の時のことでした。 「われさえも愛したもう、救い主の愛の深さ、われさえも愛したもう」美しいみことばとメロディーに満ち満ちた、賛美歌の中の賛美歌といわれる素晴らしい曲にも拘らず、彼らの演奏には全く”気概”を感じることができませんでした。
主の恵みにあずかるクリスチャンであれば、このみことばを発語する時に、感動を禁じえなくなることが当然であるように思えてならないのに、感動の一片であるどころか、喜びの一片も感じさせないような無味乾燥の空念仏のように思えてならなかったのです。
私は躍起になって聖歌隊員たちを活気付けようと、あの手この手を駆使してみました。
指揮を大げさに振り分けてみたり、音楽のダイナミックをいつもより誇張してつけてみました。あるいは、「テイク20ぐらいまでは大丈夫です。余裕をもっていきましょう。」わざとらしく励ましてみたり「喜びの一片も感じさせないような歌で、賛美といえますか?」と責めたりもしました。事態は好転すのかと思いきや、ますます泥沼化してしまいました。
私は、半ばあきらめ気分でしばし手を休めたとき、ふと学生時代にオペラ基礎演技で学んだ、演劇界の巨匠ストラスバーグの次の言葉が脳裏をよぎりました。
「君たちがいまおかれている状況のリアリティはどんなものかね?私は何一つ用意してこいとは言っていないし、最初から計画だてられたものをさせるつもりはない。そこでもう一度言うが、君たちが今おかれているリアリティは?君たちが演じることのできるのはそれしかないはずだ。だからそうしなさい。さあ演じるのだ!」
ーこれはストラスバーグが彼の演劇スタジオで、ある研修生に即興劇を演じるように指示したところ、それに対し、しどろもどろになっている研修生に言った言葉です。
私は時間的制約のある録音時間の中で、この状況の解決を図ろうと、いちかばちかで試してみようと思いました。 まず彼らの現在の状況をフリートークで意見交換していただき、その中で今 「われさえも愛したもう」を歌うことを余儀なくされている立場をどのように理解したらよいのか模索しようと隊員達に促したのです。
最初こそ遠慮がちの彼らでしたが、フリートークですぐさま分かったことは、彼らは”疲れて”いたのでした。
常盤台教会の聖歌隊は単一教会の聖歌隊としては、質、量的に優れた聖歌隊であり、教会内ではもちろん,対外的にも用いられることの多い聖歌隊です。しかしそれが逆に彼らの心身のストレスになっていたのです。とりわけ、今回のレコーディングにいたるまでは、臨時の強化練習をはじめ、賛美集会、礼拝奉仕、運営会議,冠婚葬祭ということで、奉仕、奉仕の連続であったのです。用いられることの多さで聖歌隊の価値判断をされる中、信仰の実としての、愛の献身の表れである奉仕が、奉仕のための奉仕として、奉仕そのものが目的となってしまっていたのです。奉仕をしなければ聖歌隊ではないという外的な拘束の力が働く限りはそこに彼らの信仰の自由の謳歌はありえなかったのです。
フリートークのはじめは些か気まずい感じでしたが、お互いの心情、心模様を話し始めると隊員達の
顔に納得の色が浮かび上がり、しまいには自分たちの会話に夢中になり、すっかり会話の中に没入して
いったものでした。
そこで私はそれを中断して、いまここで交わされたことこそ、あらゆる意味で純粋な魂の叫びであり、
これだけリアリティ溢れる心の”うねり”を見れば十分であろうと思いました。
私は言いました。「皆さんが今話し合ったことこそ神様への、あるいは信仰の友人への真実の語りかけであるはずです。幾多の奉仕の中で賛美の本質が本末転倒となってしまっている葛藤、自分がもっと喜びたいのに外的な拘束、くびきから喜べない状態におかれ、まさしくそれを打破したく願っている自分、それをそのまま賛美歌というフィルターを通して吐露するのです。結局はそれが、うそ偽りのない信仰の真の告白になるのです。」
結果は音楽的に万全とはいかなくても、明らかに隊員達の心の解放が認められ、すなわちそれが音楽と声の豊かさにつながっていったのです。
賛美歌はまさしく現在進行形で営みをしている私たちの指標のようなものでありましょう。同じ賛美歌を何回歌おうとも、ひとつとして同じものにはなりえません。過去の演奏と同じものを再現することはナンセンスであり無駄でもあります。礼拝で毎回唱える、例えば「主の祈り」「使徒信条」にしても、その時々の神体験によって、毎回必ず何らかの変化なり発展なりがあるように、賛美歌も「現在の進行=信仰」であって然るべきといえます。「永遠」、「不変」の神様を賛美のなかにみとめ、自らも永遠性,聖性を携えるものと変えられていく過程が賛美であると言ってもよいでしょう。
レコーディングの際、完全な体裁を期待して過去の優れた演奏を蘇らせ、それを復元コピーしようとした私の誤りを示されました。私は無意識のうちに賛美の形質的な美しさのみを期待して、主と主の言葉にまみゆるほどに変えられていく聖歌隊員の方々の心の過程をみすごし、音楽を一元的に捉えていた私の方に非があったといわざるを得ません。そのときよりも少しだけ成長した今の私から、聖歌隊員の方々にお詫びをしたいと思っています。
要するに演奏の実際的な定義は次のように言うことができます。
講壇、舞台の上で、その時々のリアリティがつくりあげられていくこと。 賛美をする人と、賛美をうける方との本当の質問であり、心からの答えであること。
しかし、ここで疑問が生じてきます。自然な振る舞いを伴う会話と、作曲家の想像力によって生み出された作品を歌うことは違うのではないか?後者は非日常的な状況、自分のものでない言葉、なれない歌いまわしによって成り立っているからです。それ故このように云うこともできるわけです。
「そうであるからこそ、演奏は私的なレベルにとどまらず、広く世間に流布する芸術と呼ぶことができるのです。自分の意向とは違う納得のいかない状況から、共感しうる真実と真理の美を作り出すこと、私たちの周りの人生の基本的手段とそれを関連付けること、それができるようになったとき、その演奏は時間と空間を越える芸術として認めることができるのです。
もちろん信仰と芸術は同義ではありませんが、芸術は信仰を生きるときのさまざまな問題や使命などに、深い切り口で示唆を与えることのできるものではないでしょうか。」 (つづく)
オペラな人 稲垣俊也
■稲垣俊哉(いながき・としや) バス
東京芸術大学卒業。文化庁派遣芸術家研修員として渡伊。1992年パルマ・ヴェルディ国際声楽コンクール優勝。シェナー音楽祭でヨーロッパデビュー。日本では「ド ン・ジョバンニ」のタイトルロール、都響「ファウスト」のメフィストフェレス(CD好評発売中)、読響「アイーダ」のエジプト王などで活躍。その他数々のオペラやオペラコンサート、FMリサイタル、NHKニュ ーイヤーオペラコンサートなどに出演活躍。現在、東京音楽大学、東京基督教大学、東京基督神学校各講師。日本バプテスト連盟巡回音楽伝道者。二期会会員。
|
|