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命の水の泉から 竹下弘美
フィリピン人の友人の話をきいていると、フィリピンでは夕食後、庭を一巡すると、ありとあらゆる果物があるので、何の果実をデザートに食べるか、そ の日によって選り取り見取りだという。果物が豊富で、アバカドなどは豚の餌だという。 果物が豊かだと、心も豊かになる。しかもそれが自分の家の庭で取れ るとなればなんと幸いだろう。 カリフォルニアでも庭にいろいろな果物がある家がある。季節季節で、桃やプラム、柿などをおすそ分けしてくれる人がいて、うらやましい。 と他人ごとのように思っていたが、我が家にも立派なオレンジの木があるではないか。 でもそのオレンジの木は、実はまるで赤ちゃんの頭大くらいの大きさで、立派なのだが、みかけだけで、毎年食べてみていたが決しておいしくなかった。 皮が厚く、水不足のためだろう。中がかさかさでその上甘くない。陽の当たりも北向きだから無理ないかもしれない。オレンジカウンティの家にあったオレンジ は水だけしかあげなかったが、気候がちょうどあっていたのだろう。とてもおいしかった。そこでこの家のオレンジの木は鑑賞用と思って、今まで馬鹿にして、 今年は食べてみようともしなかった。 けれど、買い置きのオレンジが切れてしまい、ついに、次に買いにいく間に、試しに、ごろごろ落ちていた我が家のオレンジを食べてみた。極力オレンジ色の濃いのを選んだ。 「おいしい!!」 甘みはなく、あいかわらず、皮は厚いが、新鮮さは抜群だった。最近スプリンクラーを設置したので、水遣りが毎日自動で行われるようになったから、ドライなかさかさがとれ、ジューシーになったのだろう。 それからは毎朝まるで、マナのようにその日に食べる分だけを、もいで、食べている。でも皮が厚いので、食べるのにまるで戦いだ。 これはクリスチャンについてもいえるのではないか。とかく見掛け倒しのクルスチャンが多いのではないか。私たちはスプリンクラーを設置する前のあの 見掛け倒しのオレンジのようなクリスチャンであってはならない。どうせなら、イエスさまの十字架を賭けてジューシーな実、(愛、喜び、平和、寛容、自愛、 善意、忠実、柔和、自制―ガラテヤ 5−22)を結びたい。 それには水遣りだ。根元からしっかりと水を吸うことだ。 根元であるイエス様にしっかりとつながって、御言葉をという水を絶えず霊に注ぎ、祈り続けることだろう。 今朝も皮の厚いオレンジを剥くのに戦いながら、そう思った。
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