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命の水の泉から 竹下弘美 一年前から一週間に一度歩いている。友人が運動不足の私を誘ってくれて、近くの人口湖を、往復4マイル歩くことから始まった。2マイルの表示柱が目標で、辿りつくと、そこをタッチしてひき返す。歩くことは運動神経の鈍い私でもできるし、他人にあまり迷惑をかけない。 4マイルの道のりは私たちの足では速く歩いて一時間かかる。6ヶ月ほどはひたすら、二人で歩き続けた。彼女はベテランで、私はいつもハーハーしなが ら、追いつくのが大変なくらいだった。だんだん訓練されて、かなり速く歩けるようになってきた。そのうち二人だけではもったいないので、知り合いに(とく に日本からきたばかりのご婦人たちに)声をかけるようになった。もちろん私の一番の祈りはこの方たち皆がイエスさまを知ることができるようにということ だ。今ではメンバーが10名ほどいる。もちろん、全員が参加可能ということはなかなかない。 リーダーの友人が、4ヶ月ほど外国にいっている間に留守を預かった私はこの会を、少し違う形にしてしまった。それまでは歩いたら、すぐ、解散だっ た。それを歩く場所をその都度、変えるようにした。ときには、サンフランシスコまで遠出をして、海岸を歩いたあと、レストランに寄ったり、あるときはモー ルに買い物にいったり(これはかなり歩く)メンバーの家の近くを歩くとその後、水が飲みたいということを理由にメンバーの家に上がりこみ、腰を落ち着ける ことになってしまった。 誘ったとき、無意味に歩くのはいやだといって参加しなかった方も、私たちが楽しそうに歩いていることをきいて、参加を表明してきた。歩いている間の おしゃべりが愉しい。ただ無意味に歩くのではない。いろいろな生活の知恵の収穫やひいてはストレス解消、癒しとなっていること、請け合いだ。その上、私た ちの住んでいるサンフランシスコ近郊のペニンスラと呼ばれている地域の風光明媚は、また格別で、かもめや白鷺をみることもできる。 クリスチャンになる前の私を振り返ると、ただただ、人生に目的もなくそれこそ無意味に速足で歩いていた。いや、眼前のものを目的だと思ってがむしゃらに歩くというよりも走っていたのではないか。共にいらっしゃる神様のことも知らずに。 クリスチャンになった今は、行き先がわかっているから安心して上を向いて歩ける。ちょうど、鳥や水、お花が歩いている途中で私たちを楽しませてくれるように、神様が与えてくださる人生上のひとつひとつのできごとに喜びが見出される。 来週はどこを歩いて、どこでお茶を飲むか、今日もそれを愉しんで考えている。 エノクは神と共に歩み、神が彼をとられたので、いなくなった。 創世記5-24
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