京都での牧師暴力事件、ひどい話、いや、お粗末でさえある。 牧師の風上にも置けないと憤慨する。
あれは完全にカルト教会だ。 まともな教会の牧師がやることじゃない。
ボクは61才から牧師になって良かったと思う、本当に。
社会である程度の<わきまえ>の様なこと学んだから、免疫が少しは出来たと思っている。
<わきまえ>のないのは境界線が分からないことだ。 何事にもボーダー(境界線)と言うのがあるのをついつい忘れるのだ。 日本でも昔からよく言われる「親しき仲にも礼儀あり」と言うのに通じる。
物事が調子良く進み、思い通りに行く。 先生先生と崇められ、全てが自分の力と実力で成功、権力と栄誉が付いたように錯覚する。するとそれが何時の間にか自分でも自分が制御できない程エスカレートして行き、もう見境いがつかなくなって真理より自分の意のままに物事を動かして行く。
ボーダーレスの独裁と我侭がまかり通る。
私は牧師になる前に、「思いっ切りやりなさい!!!」とハッパをかけて下さった先生がいた。お陰様で思い切りやらせていただいている。 しかし同時に、「教会は仕えることです」というお言葉を違う先生からもいただいた。
牧師の事を「Minister」と呼ぶ。 この意味は「召使い」の意。 動詞では「仕える」と訳されている。 神に仕えると同時に人にも仕える事を指す。
これを忘れるから、好き勝手なことをする。 間違った支配者になるのだ。性的暴力を繰り返すのは完全に病気だ。 精神的な心の病いである。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」(マタイ20:26)
「そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。」
(マタイ23:11)