空港の待合室に座っていると、聾唖者の人がアメリカ国旗のバッジとか(ブッシュさんが胸につけているアレ)、およそ持っていても仕方のない物をテーブルとか、イスの脇において行き、暫くするとまた回収に来る。ある人は1ドル2ドルをそっと置き、ある人たちは知らぬ顔をしている。
街角に行くと「小銭持ってる?」と近づいてくる人や、車が必ず止まる信号機のところで「I am hungry」とか「Help for our family」とか、中には[Please help for paying rent]なんて書いたのをぶら下げて、コップの大きなのを持っている。
私の子供達は、「ダディー、彼らにお金を上げないで、食べ物を買って上げなさい」という。実際ハンバーガー店で娘は一人前余分に買って差し上げた事がある。
ある時クリスチャンの友人が、「あげていいのかどうかいつも困るんだよな」と言った事がある。ああ、この人はやさしい人だな、と思った。はなからあげないように決めていないのだ。何とか出来れば助けたいと思っているのだけど・・・との戸惑いがあるのだ。
それを聞いたその時から僕は決心した。僕の所にきた人には極力何かあげるようにしよう、お金(1ドルがせいぜいだが)、食べ物・・・何でも差し上げられる物。これを決心すると迷いがない。小銭がない時は、心の中で帽子を脱いで、「ごめんなさい」と言う。そう、小銭以上は上げようとは思っていない(まだまだケチなのだ)。今まで1ドル以上差し上げた事がないという記録を持っている。
それにしてもイエス様は大変難しいな事を言われる。持ち物全部売り払って貧しい人に分け与えなさいと。あの若い金持ちの青年でなくても、ボクには到底そんなこと出来ない。牧師になってこんなことが時にはジレンマになる。口では偉そうな事を言っておきながら(仕事柄)、手本になるようなことが出来ていない。
私の生活はまだまだ差し上げるより人々から頂く方がずっと多い。今も夜中だと言うのに、仕事帰りに(レストランで働いている人)食べ物を持って来てあげると電話が掛かってきた。方角が違うのに、わざわざ寄って下さる。何と言う大きな愛の労苦だろうか。思わず頭を下げたくなる。
「あなたがたによく言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(イエス・キリスト)